とある逃亡者の新しい日常。(前篇)

「ちぃーす」

 ばん、と派手に扉が開かれる。
 思わずびくりと身をすくませ、しかし訪問者の顔を見てすぐにほっとする。

「…ヤン。扉を蹴り開くのはやめてって言ったでしょ?」
「知るか。元は俺んちだろ。俺の勝手だ」

 ヤンは後ろ手に扉を閉める。
 土色に汚れた外套を脱ぎ棄て、傍に置いてあった椅子にどかりと腰掛ける。
 
「疲れたわー。とりあえず酒くれ酒。無ければ水」 
「ここは酒場でもないし、僕は酒場のマスターってわけでもないんだけどなあ」

 口ではそう言いながらも、体は無意識に傍らのジョッキと果物酒が入った樽に向かっていた。 
 何度もこのやり取りを繰り返したからか、いつの間にか癖になってしまっている。

「さんきゅ。…っぷは、生き返るぅ。
 いやー、家に帰ると勝手に酒が出てくるってのは良いねえ」
「人を酒汲み人形みたいに言わないでくれる?」
「はは、わりぃわりぃ。
 じゃあアレク、お前も飲めよ。飲めないわけじゃねぇんだろ」

 ヤンはジョッキを突き出す。
 それに果物酒を継ぎ足しながら、アレクは首を横に振った。

「僕はいいよ。まだやることもあるし、昼間から飲んだくれるわけにはいかないから」
「ちぇ、つれねぇなぁ…」

 嘆息しながら、ヤンはちびちびと酒を舐める。
 その様子を見て、アレクはいつものように笑う。

 此処へきて、はや10日。
 アレクも、やっと今の生活に慣れてきた。
 かつてと違い、身の回りのことはすべて自分でやらないといけない。
 それは思ったより大変なことだったが、すぐに慣れた。人間、必要性が生まれるとどうにかなるものだと感心する。
 やっと手に入れた、穏やかな生活。
 ふと、形のない不安がアレクの胸をよぎる。
 
「ヤンは、何も聞かないね」

 無言でちびちびと酒を飲むヤンに、アレクは何となく話しかけてしまった。
 育ちの悪そうな鋭い眼差しが、アレクを突き刺す。

「あ?」
「僕の事。怪しいとは思わないの?」

 人里離れた辺境。深い森の辺にある、棄てられた山小屋。
 そこに、アレクは突然やってきた。そこが、ヤンの縄張りであるとは知らずに。
 暗闇の中でヤンと初めて相対した時、アレクは一瞬殺されるかと思った。それほど、常日頃のヤンの眼つきは悪い。
 だが今、何の因果かアレクは此処に住むことを許されている。

「別に。今時珍しくねぇだろ、家無しなんて」
「珍しくはないかもしれないけど…その、普通はもう少し警戒したりしない?」
「かもな。でも、実際何もないんだから良いじゃねぇか」

 言いながら、またジョッキを突き出される。
 アレクは嘆息しながら、ジョッキに果物酒を継ぎ足す。

「訳とか、聞かないの? こんな場所に家無しの人間がやってくるなんて、不思議で仕方ないと思わない?」
「まあ…確かに。こんなところに来る人間っつったら、町の牢獄から脱走した囚人か死刑囚くらいだわな。
 なんてったって、此処は少し歩けば化け物だらけの帰らずの森。勇敢な聖騎士様ですら、此処に近づきたいとは思わないだろうよ」
「なら――」
 
 コン、とジョッキが即席で拵えたカウンターにおかれる。
 肘をつき、ヤンは心底呆れたような表情でため息を付く。 

「ったく、しつこいヤツだな。お前が訳ありなのは、一目見た瞬間からわかってるっつーの。
 だから何だ。お前はその理由を言えるのか?」
「それは…」

 もちろん、言えない。
 言えるわけがない。

「なら、それで良いじゃねぇか。俺も別に興味ねぇ。
 ついでに行っとくが、寝床なんて他にいくらでもあるんだよ。お前にひとつ譲ったところで屁でもねぇ。
 つか、今更なんでそんな話するんだよ」
「え? あ、えーっと…」

 実を言うと、なんとなく口から出てきてしまっただけだ。沈黙に耐えかねた、というべきか。
 しかし無理やり理由をつけるのならば。おそらくアレクは、心配だったのだと思う。
 今まで生きてきて、アレクの周りには利己的な人間しかいなかった。だから、ヤンがなぜ理由もなく寝床を譲ってくれたのか分からなかった。
 何か企みがあるのでは――そう、無意識に考えてしまった故の行動、なのかもしれない。

「…まあ、いいや。さて、それじゃ俺、そろそろ行くわ」
「ぇ」

 がたん、と音を立ててヤンが立ち上がる。
 脱ぎ捨ててあった外套を拾い上げ、汚れを叩き落す。

「もう行っちゃうの? もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「此処には酒飲みに来ただけだからな。また飲みたくなったらくる」

 まるで、風のような人だ。アレクはそう心中で呟く。
 何を考えているのか、よく分からない。だが、その奔放さがとても羨ましい。
 大きな欠伸をしながら、ヤンはゆっくりと出口へ歩き去っていく。

「…ああ、そうだ。アレク
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