夜。人里離れた、森の中。
教会の鐘も、神の威光も届かない闇の中。
精霊と、獣と――魔物の世界。
「はぁ…はぁ…っ」
激しい息切れと、右足に鈍痛。
慣れない全力疾走に、全身が悲鳴を上げていた。
先ほど転んだ時に怪我した右足から、少しずつ血が流れ出ているのを感じる。
ちらりと、後ろを見る。がさがさと、何かが音を立てて迫ってくる。
「ひっ…!」
やはり、まだついてきている。
視界の端に見えた、長い尾のようなシルエット。
間違いない。あれは、魔物だ。もし捕まれば――食べられて、しまう。
「くぅ…!」
今度は、右腕に痛みが走った。茂みをかき分けたときに、枝か何かで切ってしまったらしい。
夜の森は視界が狭く、障害物も多い。このままでは、いつか体力が尽きてしまう。
どうにかして、ずっと後ろから追ってきている魔物から逃げ遂せなければならない。
「…ぁ」
気づけば、進む道が無くなっていた。
すんでのところで立ち止まったその先は、切り立った崖になっていた。
がらり、と足元付近の小石が崖の下へと崩れ落ちる。ぽちゃん、と水に落ちる音が響く。
「ぅ、あ」
視線を崖から後ろに向けると、果たしてそこには、ソレがいた。
朧な月の光りに照らされ、人間の上半身と、長く丈夫そうな蛇体が見えた。
まだ少し距離がある。しかし、ゆっくりと着実に、こちらへと近づいてきている。
「………っ」
眼下の崖を、もう一度見る。
不気味な動物の鳴き声にまぎれて、水が流れる音が聞こえてくる。
暗くて良く見えないが、おそらくこの下には川がある。
もし底が浅い川だったら、死は免れない。しかし、迷っている暇は、ない。
「――神よ」
意を決し、胸元の首飾りを強く握りしめる。
こちらの意図に感づいたのか、蛇体の魔物がぴくりと体を震えさせ――そして、勢い良く近づいてくる。
しかし、もう遅い。残る全身の力を込めて、僕は崖の向こうへと体を投げ出した。
『――………――!』
誰かの声が、聞こえた気がした。
しかし、僕は祈りの言葉を脳裏で唱えるのに必死で、それを聞き取ることは出来なかった。
一瞬の浮遊感。僕の体は、暗闇の中へと落ちていき――そして、叩き付けられた。
ざぶん、と大きな音が聞こえ、激痛が全身を駆け抜ける。
そのあまりの痛みに、僕は意識を手放してしまった。
●
「――あ、アレク。遅かった、ね」
扉を開けると、すぐさまメディが駆け寄ってきた。
内心を悟られないように、アレクは笑顔で「ただいま」と答える。
うまく、笑えただろうか。まるで顔が仮面になってしまったかのように固く感じた。
「お疲れ様、アレク。ごはんは、食べた?」
「うん。今日も、マルクさんのところでね」
やはりというべきか、メディは若干不満そうな顔をする。
最近、マルクだけでなく他の村人のところでも食事に誘われるようになり、帰るのが遅くなりがちだ。
村人と仲良くなれた証拠だが、一人で待たされるメディには少し申し訳ない心地がする。
「まだ、病み上がり、なんだから。あまり無理しちゃ、駄目」
「うん…そうだね。気をつけるよ。
明日は、果実酒造りに専念しようと思ってるから。もし良かったら、手伝ってくれる?」
その言葉に、メディはぱあっ、とまるで花が咲いたような笑みを浮かべる。
無邪気に擦り寄ってくるメディの頭を撫でながら、アレクは少しだけ心が軽くなるのを感じた。
しかしそこで、メディは突然はっとして、アレクを仰ぎ見る。
「…アレク? 顔色、悪いよ?」
少し触れただけで、看破された。やっぱり、メディは鋭い。
「うん…ちょっと、体調が悪いんだ。お酒、飲みすぎたかな」
隠しても余計不安にさせるだけなので、肯定しておく。半分は、本当の話。
病み上がりだったからか、少しだけ酔が回りやすかった。
それと、ただ嫌な事があっただけ。
原因は、自制心が足りなかったから。マルクにも、迷惑をかけてしまった。
心配そうな顔をするメディの頭を撫でながら、アレクは家の中へ歩を進める。
「アレ、ク。だいじょう…ぶ?」
「そんなに心配しなくても、大丈夫だよ。
ただ、少し疲れてるから…今日はもう、休む事にするよ」
僅かにでも、彼女に嘘をついている。その事が、アレクの心を憂鬱にした。
しかし、本当の事を吐露するわけにもいかない。
他人に愚痴を聞かせるのは、あまり好きではない。
アレクはもやもやとした気持ちのまま、メディの横を通り抜けた。
ベッドへと近づいていき、ゆっくりと横になる。そして、すぐに目を瞑った。
「おやすみ、メディ」
「おやすみ、…アレク」
言ってから、ふと思う。
いつもように努めていたつもり
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