鍵を閉めたまま、理科室の中で息を潜める。
廊下の前をドタバタと走る音が過ぎ、隣の準備室からはドアの開く音と先生の叱りつける声が飛ぶ。しかし足音の主たちは全く気にした気配も見せずにそのまま遠ざかっていった。
準備室へ注意を向けると、静かにドアが閉められる音がした。
コツコツと落ち着いた足音を立てて、先生はそのまま席に戻ったようだ。
抜き足で準備室へと繋がる扉へと向かう。
幸い二つの部屋を隔てる扉は開け放たれていて、先生が机で作業をこなす音が聞こえてくる。逆に言えば、こちらが僅かでも足音を立てれば、あちらにも響いてしまうだろう。紙にペンが走る小さな音を聞きながら、細心の注意を払って扉まで辿り着いた。
スカートの中から触手を伸ばし、その先端についた瞳で準備室の様子を確認する。
先生は長身を清潔な白衣に包み、机に向かったまま書き物をしていた。精悍でありながらも整った顔立ち。鼻先に乗ったあの忌々しい眼鏡が、先生の黒い瞳との間に立ちふさがっていた。
触手の瞳から邪視を送ってみるものの、全く気にする様子もない。
「ベルさん」
不意に名前を呼ばれて慌てて触手を引っ込める。
先生は妙に気配に聡いというか、邪視は効かないのに視線にだけは気づいている節があるので侮れない。
「用があるのだったらちゃんと顔を出しなさい」
顔を合わせる前から好感度が下がってしまったが、人間で例えれば角の向こうを鏡で確認するくらい失礼な行為なのだからこちらが悪い。
スカートの中に触手を引っ込めて、大急ぎで身だしなみチェック。
――よし、女の子完了!
扉をくぐって準備室へと足を踏み入れる。
先生の匂いのする空気をひそかに肺の中へと送り込みながら、一歩進んで居住まいを正した。視線を向けると先生は既に書き物を止めていて、五脚の事務椅子を回転させてこちらに向き直っていた。
単眼に邪視の力を込めて視線を絡めるも、やはり魅了の魔力は全く効いている気配がない。
「こ、こんにちはです、先生。暇つぶしに来ました」
後ろめたさから、先生の咎めるような視線が痛い。
逆にこっちが眼力にやられているようで、目を力の象徴とする魔物としては非常に肩身が狭かった。
「ええ、こんにちは、ベルさん。先ほど目の色を変えた男子生徒たちが十人ほど走って行きましたが、心当たりはありますか?」
落ち着いているが良く通る声。嫌味たらしくないが、正気を失っている男子生徒たちを慮っていて語気は強かった。
「すみません、わ、私がやりました!」
これ以上好感度を下げないためにも、あっさりと白状して頭を下げる。
先生は背もたれに体重を預け、軽くため息をついた。
呆れられたのがわかって、自分でも信じられないほど胸が痛む。
気付けば先生の目の前まで駆け寄って、語気を荒げていた。
「だ、だって、あいつら、私と目があうと視線を逸らすんですよ!? こっちは四六時中視線に魔力を込めてるわけじゃないのに……!」
邪視は女の子の熱い視線と一緒で、誰彼かまわず向けるものではないのだ。
「では、何で彼らは魅了にかかっていたんです?」
「う……、あまりにも顔を逸らしたままだから、思わずこっち見ろって怒鳴っちゃって、その拍子に……」
今度は先生はため息をつかなかった。
かわりに向けられてくる、反省を促す視線。
呆れるという行為が、実はそれ単体では相手を責めているだけで建設的でないのを先生は理解しているのだ。
「ごめんなさい。以後、十分に気をつけます」
悄然として肩を落とすと先生は表情を崩して、よろしい、と微笑んだ。
ゲイザーの種族は単眼が魔力的に完成されすぎていて、大昔の魔力本質の改変の時ですら、人間と同じ顔を手に入れることはできなかった。人は顔が九割と言われるとおり、体の異形は許容される社会になっても、顔の異形にはやはり抵抗のある人が未だにいる。
しかし、先生はそんな自分とも、他の生徒と分け隔てなく接してくれる。ちゃんとこちらの為になるよう自分の行為が相手にどういう影響を及ぼすかを考えて行動してくれるのだ。
しかも激レアの邪眼殺しの眼鏡によって邪視が効かないせいで、その行為がこちらから与えた願望ではなく、本心から来るものなのだと理解できる。
問題といえば、魔物としての唯一のアドバンテージが無力化されているせいで、全く取っ掛かりがつかめないことなのだが……。
先生のお許しが出たところで準備室の椅子に座り物思いに耽っていると、目の前の机にコトリとお茶が置かれた。但し、200mlビーカーに入れられているが。
……ちょとこれはどうかと思う。
先生に気に入られるために理科は得意科目にしたけれど、その知識によればビーカーは内容物を加熱しやすくするために熱をよく通すはずだ。つまり冷めきる
[3]
次へ
ページ移動[1
2 3 4 5 6 7]
[7]
TOP [9]
目次[0]
投票 [*]
感想[#]
メール登録