とある晩。一人の男が足取りも軽く飯屋へと入ってきた。
「オヤジ、酒――熱燗と適当な肴を出してくんな」
「おや丁さんじゃないか。今日は何時もみたいに、腹ごしらえの為だけのぶっ掛け飯じゃないのか?」
この丁という男は二十歳前と歳若く、腕を売り出し中と公言しながらも、簪から根付まで果ては祝箸などなど物の加工を行わせたらこの界隈随一と評判の、非常に腕の良い飾職の職人である。
そのために日頃は方々から持ち込まれる依頼に忙殺される仕事の虫であり、飯の用意が七面倒くさいと飯屋に訪れては手軽に出来るぶっ掛け飯を頼み、それを掻き込んで仕事に戻ると言う有様。
なので店主が丁が珍しく酒と肴などという、仕事の邪魔になりそうな注文を入れたことにたいそう驚いているようであった。
「その仕事が一つ片付いたんで、少しばかり懐が暖かいのさ」
丁はお金が入っているであろう懐を二度ほど軽めに叩く。すると軽い金属が擦れあうちゃりちゃりとした音が、服越しにくぐもって聞こえてきた。たしかに何時もは仕事に必要な物の仕入れに金子を使ってしまうために、懐は常々寂しいはずの丁なのに、今の懐の音は中々に重量がありそうだった。
そんな上機嫌な丁の様子に、飯屋の店主も上機嫌が伝播したのか恵比寿顔で注文を受けると、そのまま調理場へと向かい肴と燗の準備をし始める。
まだかまだかと手を擦り合わせて待ちわびながら、どうやら今片付けた仕事の仕上がり具合、もしくはそれを受け取った依頼人の事でも思い出しているのか、丁の顔は終始にこやかである。
「はいお待ちどうさま」
「おお、すまねー……チッ、何してやがんだ、そんな格好しやがって」
しかしお盆の上に熱燗と肴を持ってきた女中の顔を見た瞬間、さっきまでのが嘘かのように丁は急に不機嫌な調子になると、酒を猪口に注ごうともせず受け取った徳利をそのまま机の上に置いてしまう。
「随分な言い草じゃないか」
どろんと出た音と煙が女中を包みそれが晴れると、そこには見た目はほぼそのまま同じだが、女中の粗末な服から商人が愛用する仕立ての良さそうな服へと変じた女が立っていた。
いや服装よりも突如現れた頭に載っている丸みを帯びた耳や、尻から伸びている太く長い狸と見紛う尻尾の方を注目するべきだろうか。
なにはともあれそれらの特徴から察するに、この女は人ではなく刑部狸と呼ばれる妖怪であろう。先ほどの女中姿は、狸らしく妖術で変じた姿というわけだ。
「まあその言い草も、私の変化を見破った事で帳消しにして上げようじゃない。オヤジさん、私にも同じもの頂戴」
何をあんな大雑把な変化ぐらいで何を言うかと口の中で零しながら、丁は肴を食べようとして小鉢に何も入っていないことに気がついた。そして徳利から猪口へ酒を注ぎ匂いを嗅いでみると、そこに酒の匂いはなくただの水の香り。つまりこれらも狸女の化かしたもの。
何でこんな悪戯をと丁が考えていると、目の前の席に狸女が座ろうとしているのが目に入った。
「なんだお縞。俺と差し向かいでやるつもりか?」
「あら、別に私が何処で飲もうと良いのではない?」
「――チッ、久しぶりの酒だってのに」
苛立たしげに猪口の中の水を一口含んで唇を潤した丁は、視線を目の前のお縞と読んだ女から外し、脇にある品書きへと落す。
しかしそんな丁の仕打ちも慣れたものなのか、お縞はじっくりと穴が開きそうな程に、その大きい眼で丁を見つめていた。
さて酒と肴が運ばれてくる間に、如何してこの二人がこの様な雰囲気であるのかを、少々説明しなければならないだろう。
丁が腕の良い飾職人で評判であるとは先に記したのでご存知であろうが、職人気質な所と気風の良さもこの界隈の評判となっている。
例えを上げるとするならば、腕を知ってもらうために食うに困らない程度に稼げれば良いと、仕事の出来栄えの割に品代が安いため商家では重宝がられ、近隣に住人が病気などで金に困ればお互い様と見返りを求めず工面してやり、貧乏人の娘の嫁入りでは簪の一つも無いと親の面目が立つまいと一つ無料で拵えてやる。
そんな人の良さから丁の事を、仏の生まれ変わりと崇める声もあり、また貧乏人に利用されている愚か者だとなじる者もあるが、それでも丁は懐の豊かさよりも心の豊かさを選ぶという、下町職人らしい粋な気質の持ち主である。
しかしそんな丁と真っ向に相反するのが、何を隠そうこのお縞という狸女。
さてこのお縞をこの界隈住人が言い表すとするならば、守銭奴、金貸し狸、金にものを言わせる業突く張りというのが一般的。
そんな悪口を言わなくてもと思われるかもしれないが、お縞の悪行の数々を知ればそうは言っておられまい。
お縞は金貸しという商いをしているわけではあるが、その回収の仕方がかなりあ
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