サキュバスの親は、魔物の性を乗り越えられるのか?


床の上でけたたましい音を立てて皿が割れた。
皿を落とした主の背中からは羽根が、頭には硬そうな角、尻からは尻尾が生えていることから判るように、彼女は人間ではなく魔物の一種であるサキュバス。
しかしそのサキュバスは信じられないといった顔付きで、自分の手元とその先にある床の上で粉々に割れた皿に視線を向けていた。

「母さん大丈夫?」

皿が割れる音を響かせた炊事場に、心配そうに顔を出したのはまだまだ自立するには歳若い一人の青年。
例のサキュバスを母と呼んだ事から察するに、彼女がまだ人間の時に生んだ子なのか、それとも夫となった男の連れ子なのだろうか。
その青年が見ていると判ったサキュバスは、明るい調子でその青年に向き直った。

「えへ〜失敗しちゃった♪ちょ〜っと手が滑っただけだから、疲れているんだからユーヴェちゃんは座ってて♪」
「……大丈夫ならいいんだけどさ」

炊事場から顔を一時は引っ込めたユーヴェと呼ばれた青年は、続いて鉄鍋が床に落ちた音が響き渡った炊事場に再度顔を出した。

「やっぱり僕も手伝おうか?」
「いいの!私がやるって言ってるの!」

なにかこのサキュバスの気に触れたのか、途端にサキュバスは激昂してユーヴェに怒鳴りつける。
しかしユーヴェは怒鳴られても相変わらず心配そうな表情を崩す事は無く、逆にそんなユーヴェの表情を見たサキュバスがその視線から逃れるかのように顔を背ける羽目になった。

「……何かあったら直ぐ言ってよ、手伝うから」

ユーヴェはサキュバスの心情を推し量ったのか、そう言葉を掛けた後に炊事場から出て行った。
ユーヴェの歩み去る音を後ろに聞きながら、サキュバスは首に掛けていた魔界銀製のロケットを手に取ると、蓋を開けてそこに描かれている絵を見つめる。
そこにはサキュバスの顔の横には一人の男の顔。

「貴方、どうして私を残して死んでしまったの……」

そうサキュバスが呟いた通り、その男は数年前不慮の事故で死んでしまった彼女の夫の姿だった。



まだユーヴェが物の分別も付かないような子供の頃、彼の父親は一人のサキュバス――ミレーナと再婚した。
最初は知らない人を行き成り母親だと言われても、納得できなかったユーヴェに四苦八苦した彼の父親とミレーナだったが、時間を経ることによって段々とユーヴェはミレーナの事を母親だと認識する事が出来るようになった。
そんな折、ユーヴェの父は暴走した馬車の車輪に巻き込まれ、変わり果てた姿で二人の目の前に帰ってきた。
何処を如何叩きつけられたのか、手足が無残に曲がった姿で息絶えた父親に縋り付き泣くユーヴェを見て、ミレーナは一人心の中で決意した。
育てようと。
このまだ一人では生きていく事が出来ない子供を、無き夫に立派に一人立ちできる頃まで育て上げるのだと。



そうミレーナが決意した通りユーヴェはミレーナの手ですくすくと成長を続け、今ではこの町で小間使いとしてだが料理屋で働かせてもらっている。
しかし彼が立派に一人立ちし生活出来るのは、年齢的にも料理の腕前的にもあと二・三年は必要だろう。

「でも、もうそろそろ限界みたいね……」

自室のベッドの上に座り、ただ手を握り開く。そんな簡単な動作をするのにも、ミレーナの体は負担を感じてしまっていた。
それもそうだろう、ミレーナの体の中の魔力は生命がギリギリ維持できる程度の少なさなのだから。
普通は並みの魔物以上に魔力を保持しているサキュバスなのに、どうしてミレーナの魔力が枯渇寸前なのか不思議に思うかもしれないが、魔物は一度伴侶を決めてしまえばそれ以外の男の精には見向きもしないという特徴があり、特にサキュバス種には顕著に現れ――伴侶以外の精を一切受け付けなくなるのだ。
そのためミレーナは夫を失って数年間、蓄えてあった魔力を切り崩しながらのみで今迄その生命を保っていたのだった。
しかしとうとうそれも限界になり、このままだとあと一月以内にミレーナは魔力が枯渇して死に至る事になるのは明白。
そんな絶対的な絶望といえる死を目前にしているというのに、ミレーナの頬には笑みが浮んでいた。

「でも、あなたの所へ行けると思えば、不思議と怖くないものね……」

ロケットの中の亡き夫の肖像画を撫でるその手つきは、未だにミレーナの中にその夫への想いが残っている様子がありありと見て取れる。
だがそんなミレーネの部屋の前には、ミレーネの独り言を聞いたのか扉をノックする前の形で固まったユーヴェの姿があった。



寝ているだけでも魔力を消費するのか、ミレーネはベッドの上から起き上がるのも億劫な有様になっていた。
のろのろとベッドのシーツから起き抜けたミレーネは、一つ伸びをした後で体の倦怠感を追い出そうというのか、ニッコリとサキュバスに似合った卑猥な笑みを浮かべた。
そし
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