いつもだったら、黙ってじっと見ていただろう。
だけどその時、彼──岩清水高校二年の男子生徒・檜邑明宏(ひむら・あきひろ)は、勇気とか責任感とか使命感とかのパラメータが、何かのはずみで通常時よりほんの少し≠セけ高くなっていたのかもしれない……
その日の下校時、明宏はいつものように帰り道を歩いていた。
時刻は夕暮れ。駅の方から来た何人かとすれ違う、いつもと変わらない光景。
背が高く、ガチムキで三白眼という外見の明宏と目が合って、露骨に道端に寄る者も──
「…………」
別にインネンつけてるわけじゃないんだけどな……と思いつつ、カバンを手にしたまま大きく伸びをした瞬間、
どさっ── 「……?」
後ろから聞こえてきた鈍い音に振り返ると、今しがた自分の横を通った気弱そうな男性が地面に倒れ伏していた。
「え……?」
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
反射的にまわりを見回すと、その場に居合わせた他の人たちも、立ち止まったまま驚きと困惑の表情を浮かべている。
だけど誰も動かない。互いに顔を見合わせたり、目を逸らせたり……
救急車の到着時間は、全国平均で八分前後。そして脳細胞は酸素の供給が断たれて三〜四分で壊死が始まり、たとえそのあと蘇生しても後遺症が残る。心停止後、いかに早くCPR(心肺蘇生)を開始できるかが救命の最重要ポイントである──
「……ちっ」
一週間前に学校で受けた救急救命講習。そこで指導員(救急隊員)に言われたことが頭をよぎり、明宏は舌打ちをして倒れた男性──要救助者に駆け寄った。
周囲の安全を確認してその小太りな身体を仰向けにし、道端へと引きずって運ぶ。
横にしゃがみ込むと、額に手を当て表情・顔色・体温を観察。そして左右の肩を交互に叩いて、耳元に呼びかける。
最初は普段の声で、二回目以降はだんだん大きく。この時点で身体をよじるなり、手を払いのけるなりしてくれたら、それで済むことだったのだが……
「もしもし、どうしました? ……もしもし、大丈夫ですかっ? ……もしもしっ、聞こえますかっ!?」
反応なし。明宏は顔を上げると、自分の周囲を取り囲んでいる人たちを見回した。
「そこのスマホで写真撮ってる女子っ! それですぐに119番して救急車呼んでっ! それとそこのメガネ掛けたあんた、近所でAED探して持ってきてっ!」
このような場合は、特定の人を指名して大きな声で依頼するのが鉄則である。「誰か°~急車呼んで」などと頼んだりすると、傍観者効果──誰かがやってくれるだろうという集団心理がはたらいて、人はほとんど動かない。
明宏に指を差された彼女は連れたちと顔を見合わせ、バツが悪そうに手にしたスマホを耳に当てた。
だが、もうひとり──メガネを掛けた社会人風の男性は、ぼーっとしたような表情で向き直ると、
「わたしはえーいーでぃーがどこにあるのかまったくしらない……」
「駅とか学校とか交番とかコンビニとかスポーツジムとか、いくらでも思いつくだろがっ!!」
抑揚のない口調に、半ばキレ気味に怒鳴り返す明宏。
その剣幕にメガネの男性は二、三度まばたきすると、「そ、そうっすよね……」と口元に半笑いを浮かべながら、そそくさと駆け出していく。
「…………」
その背中を一瞥し、明宏は要救助者に向き直った。「呼吸確認。いち、に、さん、し、ご、ろく──」
応急処置の手順を声に出すのは、自分自身を落ち着かせるためだけではなく、万がいち「お前のやったことが原因で死んだ」と難癖つけられたときに、正しい手順で処置をしたと主張できるようにするためでもある……世知辛いが。
(注:現場に居合わせた人が救命のために実施した行為には、医師法上、民事上、刑事上、責任は問われないとされています)
「くちがうごいているからいきしてるじゃないかー」
「ほっておいてもだいじょうぶだー」
「胸もおなかも動いてないから、空気が肺までいってないっ!」
野次馬の中にいた大学生くらいの男性ふたりが、下手くそな芝居みたいに声をかけてきた。明宏はイラっとしながら言い返す。
それは死戦期呼吸、すなわち息をしようと口(顎)だけが動いている状態である。普通の状態と区別しにくいため、応急処置時の呼吸の有無は口ではなく、胸や腹部で判断するようにと教えられている。
なお、普段通りの呼吸かどうかわからなかったり、迷ったりした場合は「呼吸なし」と判断し、すぐさま心肺蘇生の手順を実施するべし。
「胸骨圧迫。位置は胸の真ん中下半分、剣状突起(胸骨の最下端、みぞおちの上にある軟骨の突起物)は折れるから絶対押さない……」
教わったことを反芻しながら両手を重ね、指を組み、手のひらの下半分で要救助者の胸を圧迫する。深
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