牛と鬼

 ここ尾久藻村には古くより続く贄の文化がある。山に封じられた荒神の怒りを静めるべく、数年に一人若者を捧げるというものだ。古文書を紐解けば、不運にも白羽の矢が立った家の子が犠牲になるその様子が克明に記されている。無論、今となってはこの風習によって実際に人が死ぬことはない。それでも贄の根本的な考え方は強く残っており、頻度こそ減ってはいるが──今や五年に一度となってしまった──身を清めた男子が一晩を小さな社の中で過ごすという儀式は欠かさず行われている。
 男子──そう、男子である。これについて少し詳しく述べねばなるまい。古来日本において人身御供に身を捧げてきたその多くは女子である。これには女、子供が清い存在であるから、若しくは生贄にしても集団にとってリスクが少ないからなど様々な理由が考えられるが──話が本筋と外れるので割愛する。いずれにせよなぜこの村においては男子が生贄とされるのか、その理由が重要だ。
 結論から言うと、荒神が女の神なのである。そしてこれは時が経つにつれ忘れ去られていったある決まり事を語る上で忘れてはならないことでもある。
 贄の儀式については、以下の通り守らねばならない約束がいくつか存在する。

 ひとつ、贄は山に踏み入る前にその身を流水で清めねばならない。
 ひとつ、贄は身を清めてから社までの道のりにおいて土を踏んではならない。また誰かと口を開いたり、目を合わせたりしてもいけない。
 ひとつ、贄と担ぎ手以外は儀式の晩は山に踏み入ってはならない。
 ひとつ、贄は夜が明けて迎えが来るまで自ら社の扉を開け外に出てはならない。

現在村に語り継がれている約束はこの四つであるが、実は先述したようにもう一つだけ、とうに忘れ去られてしまった五つ目の約束事が存在する。それは即ち誰も思い出さなかった、つまり長年にわたり贄が何事もなく山から帰ってこられたことの裏返しでもあるのだが。


 ひとつ、贄も担ぎ手も、絶対に赤い女と目を合わせてはならない。





 その日はあいにくの雨模様であった。夏の盛りに降る雨にしては蒸すわけでもなく、やけに肌寒い。おかげで川に入って身を清めているうちにすっかり体が冷えてしまった。正絹の白装束は齢十五の少年の体には少し大きかったが、着てみれば袖丈が長いのが冷えた体にありがたい。
 「おう、なかなか様になるねぇ将太郎」
 陽気な低い声に振り向くと、そこには大柄で色黒な髭男が立っていた。立ち上がったヒグマのような巨体の上で、上機嫌なイヌのような人なつこい顔がにこにこと笑っている。
 「おじさ…あっ」
 何気なく返事を返そうとして、将太郎ははっとした。身を清めたら社にたどり着くまでの道中誰とも話をしたり目を合わせたりしてはいけないのだった。今のやりとりで清めの効きが切れてはいないだろうか。しまったという顔の少年に、しかし大男は構わず話しかけてくる。
 「真面目だねぇ…気にするない、こいつぁ古くさいだけの妙ちきりんな儀式だよ。肝試しみたいなもんさ。アラガミ様なんて本当にいるわけはなかろう?俺が贄のときだってしきたりなんぞ破ってばかりだったが…」
 男は両の腕を広げてにやりと笑った。自分の胴ほどはありそうな腕に将太郎は思わず見入る。
 「今もこうしてぴんぴんしてるものなぁ…な?そんでどうだ、帯なんかがいっぱいあるけども上手く着られたかい?」
 仕来りは破って当然とでもいうようにべらべらと話しかけてくるこの男の名は清水清司。米農家をやっている彼はその巨体に見合う村一番の力持ちで、神輿の担ぎ手を例年任されている。担ぎ手といえば普通は大勢で、本当に小さい神輿を担ぐにも四人は必要だ。だが彼は子供一人入るサイズの神輿を一人で軽々と運んでしまう。昔は若者六人で担いでいたが、ある年担ぎ手の一人が階段を踏み外して以来彼が一人で運ぶことになったのだ。その時に神輿を落とさず持ちこたえたのも清水で、それから一人で担ぐのを提案したのも清水だった。背後には彼の背丈の半分は軽く超える神輿が鎮座しており、それを一人で運んできた清水の剛力を示している。
 「……服は大丈夫だと思います。でもええと…やっぱり仕来りは守った方が良いですよ」
 「はっはっは…あいや、すまん。ま、準備ができたなら行こうかね。なに、心配しなさんな。村長方がいらっしゃるとこでは流石にわきまえるさ」
 そう言うと清水は振り向いてしゃがみ込み、神輿の観音開きの扉を無造作に開ける。これから将太郎は贄としてこの神輿に担がれ、山の中腹にある社まで向かうのだ。清水は立ち上がって扉の前を空け、神輿にもたれかかった。
 「さ、乗んなよ」
将太郎はしゃがみ込み神輿の中を覗き込んで固まった。



 目の前に──神輿の中に何かがいる。


 自分が座るはずの場所に、小柄なヒトの形をした赤い
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