アキレスは非常に焦っていた。薄暗い路地裏を上下右左と猛スピードで駆け抜ける。息は乱れ栗色の髪は額に張り付き、時折足がもつれて転びそうになる。普段なら軽々と飛び越えられる筈のレンガ塀がやたらと高い。この階段はこれほど長かったろうか。この街の地図をほぼ全て頭に入れている彼にとってそれはあり得ないことだった。これまでに無い動揺を自覚しつつ、それでも彼はまだ幼い少年とは思えないほどの身体能力を駆使して追手を振り切ろうとする。あの日から変だったんだ、くそっ。もはや悪態を口から吐く余裕もない。心の中で神を呪いながらアキレスは数日前を思い返していた。
あれは悪くない一日だった。アキレスは街一番の逃げ足を持つ盗人を自負していた。まだ10歳と3ヶ月だがその膂力は並の大人の比ではない。加えて街の道なら大通り、路地裏問わずほぼ全て覚えている。人混みに紛れ込んだり入り組んだ道を素早く通り抜けたりはもちろんのこと、壁をよじのぼって屋根伝いに走り抜けるのもお手の物だ。少なくとも鎧を着て槍や短剣を持った自警団に、身軽で裸足の彼が追いつかれることなど万に一つもあり得なかった。その日も例によって自警団員のリザードマンを容易く振り切りうち捨てられた山小屋に帰還したアキレス。その懐にはよく熟れたリンゴが2個入っていた。市場で失敬したものだ。あっという間に2つとも食べ終わった彼は川辺へ向かう。彼は水浴びを日課としている。清潔感は泥棒にも必要だ。人混みの中では身なりを整えるだけで格段に目立たなくなる。上機嫌で鼻歌を歌いながら川から上がった彼は最初の異変に気付いた。置いておいた筈の服がない。アキレスは服を2着持っている。先ほどまで着ていた服は川で洗って近くに干してあるが、着替えるために置いていたもう一着がない。なんとなく薄気味悪かったが身の危険はなさそうだったので、その時は服が乾くまで裸で過ごした。
次の日は昨日消えた服の代わりを探しに街に出た。しばらく不用心な家を物色していたアキレスは、二階の窓を開け放した家に目星をつけた。ところがそのときまたもや異変に気付く。どうにも誰かに見られている気がするのだ。無論アキレスは罪人であるから追手は居て当然なのだが、自警団の連中が漂わす雰囲気とはどうにも違うものを感じる。腰のあたりの鳥肌が立つといえばよいのか、敵意は感じないが妙な視線だ。路地裏をしばらく走り回ると気配が消えたので、安心した彼は先ほどの家から動きやすそうなシャツとパンツを頂いた。
そして問題の今日である。朝飯を調達するべく街に繰り出した彼を襲ったのは昨日と同じ視線であった。しかも昨日より強いというか、もはや隠す気が無い。まるで見ているぞと誇示しているかのようだ。アキレスは小さく舌打ちしてから昨日同様街を駆け抜ける。どんな相手でも5分以上は持たないだろう、経験則から彼はそう確信していた。事実昨日のあの視線はほんの数分で消えている。しかし今日のそれは何分たっても消えなかった。ゆうに10分は走り続けただろうか。それでも視線は消えない。この時点でアキレスは相当焦っていた。まさか昨日の視線の主はアキレスを追い切れなかったのではなく、自らの意思で追うのをやめただけだったのか。言いしれぬ不安が心を覆う。今日は帰るべきかとも考えたが、彼のプライドがそれを許さなかった。視線の主はこちらが逃げているのに気付いた上で試してきている。見ているだけで一向に近づいてこないのはそういうことだろう。ならば意地でも振り切ってやろう、逃げ足に自信と誇りを持つアキレスはそう考えてしまったのだった。まずは呼吸を整える。次に準備運動だ。さっきのは遊びだった、そう心に言い聞かせながら全身の動きを確かめていく。どうせ最初から相手には見られてるんだ。ストレッチまで見せつけてから正々堂々と逃げ切ってやる。アキレスは闘志の高まりを感じた。そして大きな深呼吸を一つ、すぐ近くの路地裏に入る。そのまま駆け出しはせずに即座に壁をよじ登った。2,3軒ほどの平坦な屋根を数歩で駆け抜けすぐさま飛び降りる。この間わずか5秒ほど。距離にして軽く50メートルは移動した。だが当然視線は消えない。アキレスも承知の上ですぐさま移動を再開する。着地点は道がより入り組んだ場所だった。この地区は表通りの裏にあるせいか再開発が進んでいない。家が密集していて薄暗く、所々に崩れかけた空き家もある。逃げるには格好の場所だ。さあ走り出そうとしたその時だった。
「鬼ごっこかな?」
突如どこからか響いた正体不明の声にアキレスは総毛立つ。低くなめらかな女性の声だ。さながらコントラバスのような美しい声色だった。無論アキレスにはコントラバスについての知識も、美しいなどと感嘆する余裕もない。瞬時に体中の本能が警報を鳴らし、間髪入れず弾ける様に走り出していた。だ
[3]
次へ
ページ移動[1
2 3 4]
[7]
TOP[0]
投票 [*]
感想