山の主様とあたし。

ろっこんしょうじょう、ろっこんしょうじょう。棒のようになった両足に言い聞かせるように、繰魅(くるみ)は口の中で繰り返した。
往く道も帰る道も見失うほどに霧の深く立ちこめるその山を、麓の住人はマヨヒガ岳と呼び習わし、荒ぶる御霊の住まう神域として崇め奉っていた。
この地が日の没する闇深き海の向こうから来る異邦、教団と名乗る忌まわしき民に蹂躙されるまでは、踏み入ればすなわち帰ることあたわず、文字どおり迷いの山として有名であった。

秋も始め、もうすぐ収穫で若い人手が惜しくなるこの時期。繰魅が村長を始めとする村人達の制止を振りきってまでそんな山にわざわざ立ち入ったのは、妻に先立たれながらも男手ひとつで自分を育て、流行り病に侵され倒れた父親のため。万病を癒すといわれる霊峰の湧き水を持ち帰ろうという、決死の想いからである。
しかし、蛮勇を咎めるがごとく霧は登れば登るほど深くたちこめて視界を奪ってゆく。
鬱蒼と生い茂る枝葉は地獄に住まう餓鬼の爪のように曲がりくねり、悪意をもって繰魅の少ない荷物を掠めとる。
取り戻そうと振り返れば木の根が女郎の腕のように足に絡んで、なすがままに転んでしまえば、もう自分がどこから来たのかも分からなくなるという有り様だった。
精根尽き果て、最早これまでかと思い南無三唱えたところ、仏の返事かそれとも山彦か、天より響くかのような、女の美しい歌声が耳に入るではないか。
繰魅は既に万策尽き果て、例え山の仮生に化かされるとしても、ここで朽ちるが早いか遅いかの些細な違いに過ぎぬわいと、半ばやけっぱちに近い心持ちで己の足にむち打ち、声の方へ声の方へと進むのであった。
次第に霧が薄くなり、ほうほうの体で開けた場所にたどり着いたとき、繰魅の頭からは、それまでの辛い道のりのことなどはすっかり抜け落ちてしまった。
その光景たるや、例え死に体の繰魅でなくとも、己が既にこの世の者では無くなったという思いに駆られずにはいられなかっただろう。そこは一軒の寂れたあばら屋と、一面に溢れんばかりの曼珠沙華の花が咲き乱れる、深紅の庭。

「ここは一体何処だろう、おれは彼岸にでも迷い混んでしまったのか」

おおよそこの世のものとは思えない景色に、繰魅はただただ目を皿のように見開いて立ち尽くすより他になかった。
ふと気づけば、先ほどまで途切れることなく聞こえていたあの美しい声は、ぱったりと止んで影も形もない。その代わりに繰魅の耳をくすぐったのは、やはり先ほどの声のようであったが、打って変わって明らかな侮蔑と敵意のこもった声であった。

「はて、神の住まう山と崇めるも、所詮は口先のみの芝居であったか。さもなくば訳も知らぬ迷い子か?どちらにしても立ち去りなさい、人の子よ。ここは妾の山、ここに人の求める幸はなく、あるのはただ猛毒の花のみぞ」

あばら屋から凛と響いたその音色は、客人を歓迎しない旨とは裏腹に、繰魅の耳を妖しく撫で上げて、犯し難い神聖な存在へと当然向けられるような畏敬の気持ちと、この世の住人があの世へと引きずり込まれてしまうような誘惑に駆られる気持ちとを、同時に抱かせるのであった。
しかしどんなに恐ろしくとも、ここでおめおめ引き返したところで山から降りられるわけでもなし。ましてや父親の病を治す術すら持ち帰らずに、繰魅がこの人外魔境を後にすることなどできようはずもない。
虎穴に入らずんば虎児を得ずとばかりに、繰魅はやおら履き物を脱ぎ捨てるとその場にひざまづき、勇気を振り絞って問いかけた。

「名のある山の主様の家とは知らず、土足で入っちまってすまねえ。おれは麓から登ってきた繰魅ってもんだ。お父(おとう)が病気で、霊験あらたかなこの山の湧き水を飲ませてやりたくて。だからたのむ、後生だから、おれが山のてっぺんまで登って村まで帰るのを見逃してくれ!」
「……小娘、おのれは阿呆か」

繰魅がすべて言い終わらぬうちに、あの世の声は切り捨てる。
ああやはり、と繰魅は唇を噛んだ。お山の主が麓の住人の命など、毛ほども気にかけるはずがない。
かくなるうえは、ばちがあたるのを覚悟で山を登り抜けるか、いいやそれでは麓の皆にまで塁が及ぶのではないかと思ったところで、あの世の声は奇妙なことを言い出した。

「鼻息だけは一丁前だが、山を登ろうにも、おのれのその満身創痍では、まあ半刻と経たずに魑魅魍魎の仲間入り。麓に帰る頃にはおのれが何者かすら覚えてはおるまいて」

一体どういうことだろう?この山で死ぬれば、この世を忘れてあの世にも行けず、生きる屍と化すとでも言うのだろうか。それでも繰魅はお父の病気を治してやりたい一心で、どうか後生でございますと頼み込んだ。

「まあまあ急くな娘よ、確かにこの山の湧き水を一口飲めば、病は治るかもしれんのう。だがしかし…」


「それもまた猛毒の水
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