廃墟のアポピス

「ウフフフフッ
#9829;」

 残忍な笑みを浮かべた蛇女は、トーヴ少年の首筋に容赦無く毒牙を突き立てる。そこより淫毒が伝い、少年の体の中に流れ込んでいく。

「う……あっ…」

 やがて女が少年を放すも、少年はかすれた呻き声をあげ、力無く地面に倒れる。

「うぅ……」

 体が思うように動かない。頭がぼんやりし、クラクラする。

「……
#9829;」

 そんな身動きの取れぬ少年を、女は笑みを浮かべて見下ろす。しかし、そんな彼女の顔に浮かぶのは嘲りでなく、“期待”であった。

「や…めて…よ」

 そんな女に恐怖を感じ、拙い言葉でやめるよう懇願する少年。彼の人生において、このような真似をされたのは初めてであったのだ。
 主神教団の支配する地域では、魔物娘は『魔物は人を殺す』といった、有りもしないデタラメがまかり通っている。そして、赤子の頃から魔物娘に囲まれて育ったトーヴは、それが嘘だと知っていた。
 魔物娘は何の理由もなく人を傷つけたりしないし、人間に悪意を向ける事も無い。事実、彼が出会った魔物娘達は皆そうであった。
 彼女達は皆優しく、人間に理不尽な暴力を振るう事など無い。どんな種族であれ、それは共通していた真実だ。

「…♪」

 しかし、この女だけは違った。突然現れたこの蛇女は面識すら無いメティトを尻尾の一撃で叩き伏せ、ファラオの息子である自分にも躊躇無く牙を突き立てた。
 それがこの少年には怖かった。目の前の女は自分の知る魔物娘とは違う、何処か別の世界や次元の生き物にさえ思われた。

(こ…こわいよ……メティト…!)

 声さえまともに出せなくなりつつあった少年は、縋るような思いで蛇女の後ろに倒れるアヌビスを見やる。それが助けを求める一言さえ出ない今の少年に出来る精一杯の事であった。

「………!」

 しかし、少年の淡い期待はアヌビスを目にした瞬間見事に打ち砕かれた。
 仰向けに倒れるメティトはトーヴと同じく動けないのか、荒い息遣いで顔と体を赤く染め、時折苦しそうに身を震わせるばかりである。

「ダメ
#9829;」

 トーヴの視線から、彼の関心が自分でなく、無様に倒れるアヌビスにある事に気づいた蛇女。
 自分の方を見るよう、尻尾の先端を少年に巻きつけて持ち上げ、正対させる。

「ぁ…ぅ」

 改めて蛇女の顔を見させられる少年。彼女は何故か熱の籠った目でトーヴを見つめるが、それはこの少年の恐怖を和らげる事には役立たなかった。

「! ちゃんと私の顔を見て!」

 恐怖から、そしてささやかな反抗としてトーヴは女から顔を背けるも、女は尻尾を操り無理矢理少年に正面を向かせる。

「ウフフ…」

 可愛らしい少年の顔を目にし、蛇女は上機嫌となる。

「……っ!」

 一方、正対したことで爛々と輝く恐ろしげな金色の瞳を見ることとなったため、少年はますます恐怖に怯え、涙を浮かべた。
 しかし、そんな事は些細な事だと気にせず、蛇女はトーヴ少年をまじまじと見つめ続ける。

「………」

 しばらく一方的に見つめたところで満足したのか、蛇女は視線を移す。荒い息を吐きながらメティトが体をよじらせているのは変わらず、またこの場に自分達以外は誰もいない事を女は確かめる。

「ふん」

 女は倒れるメティトを鼻で嗤うと、動けぬトーヴ少年を大事そうに抱きかかえたまま、蛇体を這いずらせて何処かへと消えたのだった。










 ――宮殿・食堂――

「遅いわね。いつまで遊んでるのかしら…」

 椅子に座り、苛立ちのあまりテーブルを指で叩くファラオ。息子と部下が夕食の時間になっても帰ってこないため、メシェネトは段々と心配になってきていた。

「メシェネト様!」

 そんな中、マミーが青い顔で入ってくる。

「! 何事?」

 部下のただならぬ様子を感じ取り、険しい表情で尋ねるメシェネト。

「そ…それが…」
「早くおっしゃい!」
「お…王子様が何者かに拐われました!!」
「!!? なんですって!?」

 報告が信じられず、愕然とするメシェネト。

「トーヴにはメティトが付いていたはず! 彼女は何をしていたの!?」
「メティト様は襲撃の場にいて下手人に懸命に抵抗されたようですが力及ばず、為す術もなく連れ去られたとの事で…」
「っ!」

 なんという事だ。命よりも大切な息子が連れ去られてしまった。

「………………」

 しかし、ここで取り乱してはならない。そんな事をすれば、部下達は余計動揺する。
 沸き上がる憤怒を一旦心の底へ押し留め、ファラオは平静を取り繕う。

「下手人から何か要求はあった? それと、その者の容姿についての特徴はメティトから何か聞いているかしら?」

 メティトの方は何とか帰還した以上は、犯人を目撃しているはずだ。
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