波の歌声

僕が毎週末に必ずこの海岸に来るようになって1か月になる。

8月の頭から仕事が上手く行かずにもやもやした気分で毎日を過ごしていた僕は、
貴重な週末を家にこもって特に何をするわけでもなく朝からゴロゴロしていた。
「暇だ……」
とは言っても何もする気も起きず、その日は面倒だしもう寝てしまおうかと布団にくるまった。
自覚はなかったが、疲れていたのだろう。僕はすぐに眠りに落ちてしまった。

目が覚めると時計は昼前を指していた。随分と懐かしい夢を見た。
あれは小学校の低学年くらいだっただろうか。家族で海に行った時の記憶。
ぼんやりとした記憶だが、場所は何となく覚えていた。
いい気分転換になるかもしれない。楽しかったあの頃を思い出して久しぶりに海を見たくなった僕は、自転車に乗ってマンションを出た。

「マジか……」
海岸へ向かうトンネルの入り口は看板とチェーンで塞がれていた。
どうやら10数年の間で立ち入り禁止になってしまったらしい。
海水浴場というわけでもなかったし、大きな岩もあちこちにあったような気がするから、
恐らく危険だということで封鎖されたのだろう。
しかしここまで1時間かけて来たのにはいそうですかと素直に帰るのも癪ではある。
「まあただのチェーンだしいいか」
少し錆びたチェーンを乗り越え、僕は再び自転車に乗ってトンネルの中を進んで行った。
トンネルを抜けると、柔らかな日差しと共に潮の香りと一面の青い海が目に飛び込んできた。
「うわぁ…」
10数年ぶりに見る海は凪いでいて、きらきらと輝いて見えた。
「こんなに綺麗だったっけ…。来てよかったな」
この光景を見ただけでもう満足しているが、せっかくだし海岸まで行ってみようと
自転車を走らせた。
顔を撫でる風が気持ちいい。浜風が吹いているのにべたつかないし、
町からあまり離れていないはずなのに空気も綺麗な気がする。
こんなにもいい所なのにどうしてあれ以来一度もこの海岸に遊びに来なかったのだろうか。
そんなことを考えていると、海岸にたどり着いた。
左右が大きな岩で囲まれていて、この浜辺のあたりだけ窪んでいる。
僕は自転車を止め、少しの荷物を持って浜辺へと向かった。
小さな岩場に腰を落ち着け、改めて海を見る。
「思い出は美化されるっていうけど、あの頃より今の方がずっと綺麗な気がするなぁ」
感性が変わったのか、視点が変わったからなのか。記憶の中の海よりも輝いて見えた。
まああの頃は遊ぶのに夢中だったからかもしれないが。
そんなことを考えながら、道中コンビニで買ったおにぎりを取り出す。
道中そこそこ時間がかかったこともあり、僕の胃袋は鳴き声を上げていた。
具は普通の鮭だが、潮の香りもあってか普段より旨い気がする。
ゆっくりした時間を過ごしていると、さらさらとした波の音の間に別の音が聞こえてきた。

  ラ〜ラ〜ララ〜

「?…歌?」
どこからか聞こえてくる歌は歌詞は無く大きな声ではなかったが、波の音に掻き消されず
しっかりと歌声を僕の耳に届けてきた。
「綺麗な声だな…」
はっきりと通る澄んだ声なのにとても優しく、母親が子に聞かせる子守唄のような暖かさを感じた。
僕は昼食を食べるのも忘れ、目を閉じてその歌声にすっかり聞き入ってしまった。

ふと気が付くと海はオレンジに染まっており、あの綺麗な歌声もいつの間にか消えてしまっていた。
いつの間にか眠ってしまっていたようで、顔を上げた僕の前からバサバサと鳥が数羽飛び立っていった。
僕はどうやら彼らへ食事をおごってしまったらしい。
仕方がないので彼らの食べ残しとごみを片付け、自転車へ向かう。
昼食は食べ損ねたが、あの歌声の人のおかげで今までにないくらい幸せな時間を過ごせたからむしろお釣りがくるだろう。
「あの歌…また聞けるかな」
明日も休みだしまた来てみよう。僕の休日の予定が久しぶりに埋まったのだった。
しかし心と予定は埋まったが、僕のお腹は抗議の声を上げていた。
「…なんか食べて帰るか…」
翌日、大体同じ時間帯にあの場所へ向かったが、その日はあの歌声の主は現れなかった。

日曜には聞けなかったものの、あの歌のおかげで僕はその週の仕事のモチベーションを維持することができ、
だんだんと以前のようにこなせるようになってきた。
次の週末も丁度晴れていたので、僕はあの海岸へと足を運んだ。
同じくらいの時間に向かったからだろうか、浜辺に着くとあの歌声が聞こえてきた。
前回はあまりよく分からなかったが、よくよく聞いてみるとどうやら岸壁の裏の方から聞こえてくるようだ。
先週と同じ岩に腰かける。今日は食事は先に済ませ、代わりに本を持ってきた。
彼女の歌声は癒し効果でもあるのか、とてもリラックスして読書ができると思ったのだ。
よくよく聴いていると、偶に音がずれることがあるが
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