耳元に吐息が掛かる。
肩に顎を乗せ、小声で染み込ませるように彼女が囁いてきている。
既に体は隙間など無いくらい密着していた。
「それにしても、『貴女は一体何ですか』ですか……」
租借するように先程の自分の発言を繰り返す彼女。
「普通、こういう時は『誰何ですか?』ではありません?僭越ながら貴方は私の正体をお察しされている筈ですわ」
暗に【人間ではない】という回答が返ってくる。
人間でなければ、他に人型の種族は魔物娘しか自分は知らない。
が、腑に落ちない。
「貴女は…快活で、聡明です。そして慎み深さもありました」
「ですが魔物娘特有の有り余るくらいの活力は見受けられませんでしたし、服装もその……露出を抑えたもので普通でした。
確かに美人だな、とは思いましたが人間にも人間離れした美人は居るでしょう?だから魔物娘とは思わなかったんです」
そう答えると、彼女は少し苦笑して続ける。
「魔物娘にも慎みはありますわ。ただ、愛する殿方を前にすると抑えが利かないだけ……それで、お話は続けて下さいます?」
まだ疑問はある。
単純に今聞く事かといえば、優先順位は低い。
だが、自分の中で【確認しろ】という理由の分からない声と、さっさと離れた方が安全だという声が葛藤し口にすべきかしばし逡巡してしまう。
話は続かない、と判断したのか彼女が行動を起こそうしてきた。
「では、逢瀬の続きなどを……♪」
腹に沿えていた手を更に下に伸ばそうとする直前、慌てて続ける。
「そ、そうだ!天音さんは魔物娘なんですよね?なんて種族なんですか?」
本来聞きたい事ではなく完全に勢いだけで聞いてしまった。
質問としては脊髄反射以外何物でもなく、その場凌ぎにしかならない。
言っておいて何だが『では、これからじっくりとお教え致しますわ♪』とか言われて押し倒される未来しか見えない。
俺の童貞も此処までか……いや。
もう覚悟するべきなのかもしれない。
思い起こせば人間の女性と付き合えなかった。
魔物娘ですら対象ではなく友人止まりの扱いだった。
誰とも恋愛関係を進められなくて、もう三十路前だ。
心の何処かで『次がある』と甘えていた結果だろう。
『焦らなくても魔物娘が居るから、いつかきっと誰かと付き合えるだろう』と高を括って、現実を見てこなかった。
誰とも恋仲になれず、何時しかその努力すら放棄して恋愛を諦めた。
既に恋人が居たり結婚している同僚や友人から意中の女性がいるか、という問いを貰った事も一度や二度ではない。
『呪いのせいで仕方がない』と嘯いてきたが、今振り返ればただ彼等を妬んでいたのだと思う。
この人魔入り乱れる時代、自分は誰かと添い遂げるという、誰しもが成し得る事が出来ず、達成できた者達が羨ましかっただけだという事を認めるべきだ。
そんな捻くれた中年に此処まで好意をぶつけて来てくれる女性を蔑ろにする程、自分は上等なものではないだろう。
今まで捨てたい捨てたいと思っていたくせに、いざその機会が出来たら逃げ回るなんてどれだけ自分勝手なのか。
種族なんて関係ない。童貞をこんな美人が貰ってくれるというのなら自分からお願いするべきだったのだ。
「……当ててみて下さいまし」
覚悟はあっさりと覆った。
少し身を離し手に込めていた力も抜いて肩と腹が解放される。
肩透かしを食らう羽目になったが管理人さんの胸と自分の背中に空間が出来た事にまずは安堵し、言われた通り先を続ける。
「―――まず考えたのは稲荷です」
この理由は、変化が得意な事と慎み深さを持っている事である。
個体差はあるだろうが歳を重ねればスタイルも良く育つ事も考えられた為、自分でもいい線だと思っている。
それを聞いて、管理人さんは残念そうな声で続けた。
「違いますわ、狐ではありません。……ヒントを差し上げましょう。『少々こちらを向いて下さりません?』」
先ほどから彼女の言葉に抵抗を感じなくなっている気がする。
体を捩り、彼女の側を向く。丁度正面から向き合う形となった。
すると、こちらの手を取り自分の頬に触れさせた。
「っ?……冷たい?」
「ええ」
氷のような、という程ではないが芯まで冷え切っているような冷たさが手の平を伝ってくる。
触れていれば際限なく、ゆっくりとこちらの体温を奪い尽くす感覚に、まるで既に捕食されているような錯覚を覚えた。
「そうなると……雪女ですか?髪も黒いですし」
「あら、いけません。解き忘れていましたわ」
のんびりとした口調で続けると、暗闇に慣れた目に信じがたい光景が映る。
抜けるような白い肌は更に血の抜けた
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