3話:うっかり亡者の悲喜こもごも(後編)

 





 一瞬何が起こったか分からなかった。
 後ずさりして距離を取ろうとしたら、視界が何やら白いもので埋め尽くされている。
 所々に赤黒い部分の有るそれは、何故か脳裏に融けた生クリームの乗ったショートケーキを連想させた。
 
 何をして良いか分からずに立ち尽くしていると、それは芯のある固めのスライムのような感触で自分の両肩を押さえてきた。

 ―――掴まれている。

 そう頭が理解した瞬間、俺は生理的嫌悪を感じ大きく体を動かす事で振り払った。
 反射的に下がる事で漸く全貌が見える。

 肉の溶けた白い人型。
 そうとしか言いようがない。
 顔が全体的に熱せられたとしか思えない位溶け崩れており、頬の表面には溶けたであろう部分が滴となって流れていた。
 開かれた裂け目のような口の両端は下顎を支えられないのか喉の辺りまで垂れ下がっており、その上の鼻腔が暗闇を覗かせている。
 髪も頭頂部から不自然に垂れ下がっているあたり頭皮ごとずり下がっているのかも知れない。
 疎らとなった前髪から覗くのは本来収まっているべき眼球が垂れ下がり、空洞となった奥に仄暗い奈落が佇む右の眼窩。
 ショートケーキのイチゴだと勘違いしていたのは内側から今にも飛び出してきそうな位盛り上がっている真っ赤に充血した左目だった。
 死臭、腐臭の類がないのは脳がその情報だけでも押し留めようとしているからかも知れない。

 どう見ても生きていない【モノ】が、指先が出鱈目な方向に曲がり細く伸びた蝋細工のような腕を此方に伸ばそうとしていた。
 その太さの位置や長さが全く均整の取れていない腕に掴まれる前に俺は悲鳴すら忘れて駆け出した。
 最早一刻の猶予もない。
 疑いようもなく、此処は命の危険の有るところだったのだ。
 和夫の口車になんて乗らなければ良かった。
 何とか外に出て、車で逃げ切るしか助かる方法はない!
 
 俺は元来た道順である3階女子トイレ側の階段へ急ぎ駆け下りた。





 
 
 私の【化粧】は基本的に魔力経由で『私の思い通りの形状』に『私の思い通りの力』を発揮させるものだ。
 無論生成できる量、充填出来る魔力、形成可能な形状は制限される。
 
 生成できる量が少なければ重点出来る魔力量が足らず、あまり力が出ない上に形状も大きく変えられない。
 充填する魔力量が少ないと形状が維持し辛く、思う通りに動かない。
 形状と力を維持しつつ思い通りに動かすには、矢張り何処かでバランスを取らないといけないのだがそのバランスを調整するのは経験則しかない。
 数字ではなく勘や感性で行わないといけないのだが、これはある意味で利点となる。

 例えば何らかの理由で閉じ込められてしまった時や霊体化出来ない状態になった時等、簡易な避難所や重機として使用する事が出来る。
 使用する際の魔力放出はあるが、繭状に覆えば自然放出される分も逃がさないので道具としてあるまじき“感情の爆発”を起爆剤する事で高い効果を発揮する場合が往々にあった。
 
 何が言いたいかというと。
 テレポートとすら言って良い速度で彼の目前に移動出来たのは正直私もビビった。
 
 だって目の前に来ると思わなかったし!
 確かに『彼が欲しい!』『逃がさない!』とは強く思ったけどここまでとは思わないし!
 というか勢いが若干残ってたのでつい肩掴んじゃったけど、あのまま彼の胸に飛び込んだ方が乙女っぽかったと今後悔してるし!

 次どうするか考えていなかったのだが、彼が力任せに此方の掴んでいる手を振り払った。
 ちょっと傷つく。
 次の瞬間、彼は息を呑んで目を見開いていた。
 何だろう、彼も緊張して何も言えないんだろうか?それともさっき何処かぶつけてしまったのだろうか。
 心配になり自然に手を伸ばすと世界選手もかくやという速さで私の視界から消えていった彼。
 大分傷つく。
 慌てて全力で追おうとすると、足が動かずつんのめって盛大に転んでしまった。

 弱い粘着質の白濁液に身体前面から塗れてしまい、簡単に起き上がれない。
 取り合えず―――

 ≪―――ミスティ、サポートお願い。1階踊り場から2階踊り場の方向転換宜しく!≫

 ≪あいあいさ〜ぃ≫

 了承の返答と共に仕掛けて貰った魔法陣が起動したのが魔力の流れで分かった。
 これで彼はしばらく上と下を自分でも気付かないまま上り下りするだろう。

 ≪どしたの〜?滑空でもして体当たりした後に夢か幻と思わせてお持ち帰りされるだけと思ってたんだけど〜≫

 シット、バレれてやがる。勘がいいってレベルじゃないわ、この娘。
 ……ここは正直に言うしかないか。

 ≪あー……うん、その通り。でも失敗しちゃったわ。ゴメン、大きな事言っといて結局やれるのがこんな事しかないなんて―――≫
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