「ごきげんよう先生」「ごきげんよう」
柔草を踏みしめて、静々と洞窟から歩み出す白い馬体には花嫁のヴェールのような刺繍を施した薄布がかかっている。
姦しい年頃の少女たちが、お喋りをやめて教師を迎えるために座りなおした。
少女たちの中には、並みはずれた美貌に角や翼を具えた者、半身が獣の形をとった者が散見されるが、人外の姿を目撃して騒ぐ者はいない。
なにしろ、彼女たちが教師と仰ぐ美女も魔物に類する存在なのだから。
艶やかな白い毛並みが途切れたあたりから、馬の首の代わりに、竪琴を抱いた乙女の上半身が木漏れ日に包まれて背筋を伸ばしている。
「それでは、皆さん。今日は婚礼の祝宴の唄と、髪結いの勉強です。解らないところがある人は、いつでも先生に質問に来て下さい。」
「はい!先生!」
少女たちの笑いさざめく声とあどけない歌声が、静謐な森をあっという間ににぎやかに彩っていった。
その中央で竪琴を奏でるユニコーンはガラテイア。近隣の名士がこぞって娘の花嫁教育にと教えを請いに出向く名高い女教師である。
唄や作詞の勉強から、天文学、薬草学、料理に機織り、髪を結う技術まで。「淑女の業を知るガラテイア」と吟遊詩人に謳われるほどの評判に、遠方から彼女を訪ねる人間も少なくない。
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生徒たちを送りだした後、ガラテイアは住居には帰らず、一人丘を登り、吊橋を渡って切り立った絶壁を臨む崖に歩を進める。
そっと木陰に身を隠すと黙って、崖に座る人影を見つめた。
人影は若い男だった。ひどくやせ細り、きっともう何日も食事を口にしていないだろう。
崖を降りれば、ガラテイアはすぐさま彼に食事をとらせ、治癒の魔術を使って安全を確保する。男が強く望めば、人里まで背に乗せていくこともいとわない。
けれども、男は頑としてこの場を動かない。虚ろな目で竪琴を掻きならし、恋の歌を歌う。
それは、少年と少女の物語だった。
少年は幼馴染の少女と野で遊び、歌を歌い、花冠を編んで遊ぶ。少女ははにかみ、花冠を受け取ると、花嫁を真似て結婚式の真似をするのだった。
季節は巡り、少年は青年となり、少女は乙女になった。少女が糸をつむぐ窓辺で青年は歌い、少女は歌を聴きながら花嫁の衣装を織る。
そして、二人は婚礼の夜を迎え、幸福な家庭を築きいつまでも幸せに暮らすのだ。いつまでも、いつまでも。
とても幸せな夢のような物語。近くの街道を通る人々は誰もがこの歌を忌み嫌った。
皆は口々に、男は狂人だと言う。
幼馴染の少女は、歌の通りに少年と出会い、結婚の約束をして、けれどもそれを果たすことはなかった。噂によれば、他の男の花嫁となり、自ら命を絶ったとも、病で死んだとも、夫の遠い赴任地に去って行ったともささやかれている。
食を断って叶わなかった恋を歌うことに命を費やす青年に、最初は皆同情し、やがて人間とかかわりを持たない青年を厭うようになった。
ガラテイアは最初、食事を届け、住居を提供することを申し出たが、青年に酷く拒絶された。
今は、青年から身を隠して彼の姿を見るだけに留めている。
(もし許されるなら、今すぐにでも駆け寄って抱きしめたい。傍に寄り添いたい)
ケンタウロス種の激しい欲情の衝動に突き動かされそうになったことは一度や二度ではない。
ヴェールを噛みしめて声を殺し、そっと濡れそぼった陰唇に指を伸ばす。
「……んんっ……むう……」
くちゅりと小さな水音が鳴るたびに、せつなげなうめき声が漏れる。
男がつかれて眠りこむまで、彼女は自分自身を慰めて本能をこらえるのが日課となっていた。
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「今日は授業はありません、早くお帰りなさい」「でも、先生……私他の子より覚えが悪くて……」「言ったでしょう?今日は大雨になるって。体を壊してしまうわ。さ、早くお帰りなさい。次の授業が終わったら別に時間を取ってあげるから。ね?」
渋る生徒に微笑みかけると、彼女はやったあ。と飛び跳ねて家路へ着いた。
現金なものね。と笑いそうになって、ふと崖を見る。
まさか豪雨が来る時まで演奏しはしないだろうと自分に言い聞かせるが、死に急ぐような彼の姿を思い出すと、空模様と同じく厚い黒雲のように不安が胸中を埋めていくのだ。
「少しだけ、少し様子を見るだけなら……そうよ、雨が降る前に戻ってくればいいんだわ」
早足にいつもの道へ足を向ける彼女の頭上で、風がびょうと不吉な音を立てた。
丘に登るころには、すでに前を見るのも困難なほど雨が降り、風が結い上げた髪を容赦なく乱す。
元々乾いた平地を駆けるのに適した脚は、濡れた草に滑り、跳ねあげた泥が頬まで跳ねてまた雨に流されていく。
寒さと不安に体を震わせ
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