化物

乳母車の中で揺れる赤子を前に。椅子に深く腰掛けた司教は頭を抱え、一人震えていた。

『…………っ』

恐ろしい。これほどまでに恐ろしい事があるだろうか。
仮に。前の前にいる存在が悪魔ならば、まだ取引という概念も通じるのかもしれない。
だが――目の前の、恐らくは勇者であろう赤子には、言葉が通じない。
蒼い硝子玉のように澄んだ瞳からは、感情や思考を窺い知る事も出来ない。

だから――何かの拍子に、あの破壊が引き起こされるかも分からない。

そうして、ここは街はずれの森の中ではない。
町の中心に位置する聖堂、その中の彼の自室。
同じ事が起きれば、その被害は甚大なものになる。
かと言って、今更彼を元の場所に返す事も出来ない。
ならば。

――ああ、神よ。

心の中で祈りを捧げながら、彼は一冊の本を手に取った。
しかし、それは彼の信仰する神の言葉が記されたものではなく。
凶悪な犯罪人から意思と感情を奪い、下した命令のみ従わせる……禁呪と呼ばれる類の魔法が納められた魔導書だった。





それから、時は流れて。

『………………』

何をするでもなく。美しい少女と見紛う程に整った容姿の少年が、今日も椅子に腰掛け、司教に与えられた部屋からただ窓の外を眺めていた。
当然だ。彼は今、何の命令も受けていないのだから。
命令されなければ――彼は、動けないのだから。

『――待たせたね。さぁ、食事にしようか』

テーブルの上にパンとミルクを並べていた司教がそう言うと、ようやく少年は振り返り、感情のない瞳で食物を口に運び始める。
彼は、この勇者の存在を公に報告する事はなかった。
どんな命令にも従う、強大な力を持った勇者。小さくない国の司教という立場上、教団の中にそんな少年を私物化しようとする魑魅魍魎がどれだけいるのかという事を、痛い程に知っていた。
例えば――そう。あの、レスカティエのように。
彼は信仰に厚い人間だった。
だが同時に、主を信仰する教団を作り、動かしているのは――主ではなく、人間だという事を知っていた。

『……すまない。君をこんな風にしておいて、僕は孤児院への巡回の合間くらいしかここに顔を出す事が出来ない』
『………………』

返事はない。
あの日から、彼は常に罪の意識に苛まれていた。
一人の少年を、命令無しでは動けぬ操り人形にしてしまったという、紛れもない事実。
主に力を授けられた勇者を、その使命を果たさせぬままに幽閉しているという自責。
全ては、自分があの日行った事の結果。

『だけど、それももうすぐ終わる』

だから、ずっと準備をしてきた。
私財を擲ち、魔王城への遠征軍における自分の発言力を大きくしてきた。
一度遠征隊として魔界へ入ってしまえば……例え彼の存在を知られようとも、外部から手出しをする事は出来ない。
勇者として大きな戦果を挙げ、それが大々的に広まれば。しかも、先んじてその勇者がすでに『とある司教』によって洗脳され、私物化されていたという事実が明るみになっていれば。
それに続いて彼を私物化する事は、難しくなる。
そして教団の最高位の治癒術士であれば、彼にかけられた禁呪を解除できる者もいる筈だ。
司教はミルクのカップをテーブルに置くと、僅かに帰還を果たした遠征軍から上げられた報告書を取り出した。
そこに記されているのは――極東の国より傭兵として遠征軍に加わり、そして離反した一人の男。
勇者とすら対等に戦い、そしてその戦いの後の様子から、魔王の娘とつがいになっていると見られている。

『…………』

前線に魔王の娘ほどの大物が現れる機会は限られているが……魔物のつがいとなった者は、その魔物と同等の脅威を持つ背信者として扱われる。
この男を殺さぬまま連れ帰り。公衆の面前でその素性を吐かせた後、処刑する事が出来れば。
そうして何を隠そう、彼が倒したという勇者、エドワードを手配したのもこの司教であった。
だから知っている。
目の前の少年が、彼とは比べ物にならない――いや、ほぼ全ての勇者と比べてでさえそうである、まさに神の如き力を持っているという事を。

その翌日、司教は少年へと命令を下した。

『この男を、殺さずに捕らえて帰還しろ』
『この命令が完了するまで、他の命令は一切聞いてはならない』
『例え――それが、自分の名前で下された命令であっても』





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駆け付けた勢いのままに。
あらん限りの力で勇者を殴り飛ばしたアゼレアは、行綱の傍へと膝を付き、涙の滲んだ声で呼びかける。

「……行綱」

返事はない。
風前の灯火のようなか細い呼吸。右腕はあらぬ方向へと折れ曲がり、目の焦点は定まっていない。
彼がいつも欠かさず手入れをしていた黒地の鎧は無惨に砕け、その全身が夥しい血と泥にま
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