それは、ルウがまだこの廃寺で師匠達と暮らし始めたばかり頃の話。
彼は、日が落ちると師匠達が倉庫から探し出してきた本を読み聞かせて貰い、座学に励んでいた。
「さて、少年。今日は『頸』についての勉強をしようか」
胡坐をかき、その股座の上に今よりもさらに幼いルウを乗せたランが、手にした本を開きながら言う。
「はいっ、ラン師匠っ」
ルウが少しずつ成長し、一人で本を読むことが出来るようになってからはめっきりと減ってしまった光景だが……幼い頃のルウは、この時間が大好きだった。武術の技術は勿論、その歴史や数々の英雄譚……自分の知らない知識を教えてくれる古ぼけた本達は、しかし彼の眼にはきらきらとした宝石の詰まった宝箱の様に映っていた。
膝の上に乗せた少年が見やすいように本の位置を調節しながら、ランは自らの弟子に本の内容を読み上げていく。
「『頸とは、霧の大陸における武術の基本であり、極意でもある。攻守における身体操作の根底にあるものであり、極めれば鎧や竜鱗を纏った相手にも有効な打撃を放つ事も可能となる』……まぁ、この定義は割と流派によって解釈が異なるんだがな」
それを聞いたルウは、不思議そうに振り返り、三角の耳が揺れる師匠の顔を見上げた。
「大事なことなのに、ばらばらなんですか?」
「そうだ。……霧の大陸では、腕に覚えのある者が師から独立し、自らの流派を立ち上げるという事が珍しくない。そんな数えきれない程の流派がある上に、同じ流れを汲む物でも、なぜかその解釈がまるで違ったりするんだ」
話を聞いても、変わらず不思議そうに首を傾げている少年。
そんな愛らしい弟子の姿に、ランは軽く笑みを零しながら続ける。
「ふふ。幸いな事に、私達三人の間ではほとんどそのズレが無いと言っていい。少年が私達の弟子で居る間は、あまり気にする必要はないぞ」
「はいっ、分かりました、師匠っ!」
「うむ。いい返事だ、少年」
笑いながら、ランはわしわしと可愛い弟子の頭を撫でる。
この少年が、自分達の弟子では無くなる時。いつかそんな日も来てしまうのだろうか。
それはどんな時なのだろう。数多く枝分かれしている流派がそうであるように、術理に対する意見の違いでの喧嘩別れだろうか。
あるいは……彼が、自分達よりも強くなってしまった時だろうか。それならば、師匠としては万々歳なのだが――
「……ふふ。どちらにせよ、まだ気の早い話か」
「……師匠?」
「ああ、すまない少年。では続きを読むぞ――……」
今はまだ小さな弟子の、そんな未来の姿に想いを馳せながら。
師匠と弟子の夜は、更けてゆくのだった。
――――――――――――――――――――
幾度も地面を転がった先で倒れ伏す弟子の姿を見ながら、ランは額に一筋の冷たい汗を流していた。
先程まで激しく燃え盛っていた火鼠の衣も、二週間前に初めて彼の手足に宿ったそれを見た時のような、火の粉のように頼りない物に戻っている。風が吹けば消えてしまいそうな、まさに風前の灯火といった様子だ。
「……………」
――少し、やり過ぎてしまっただろうか……?
いや、とランは脳裏に浮かんだ自分の考えを否定するように軽くかぶりを振る。
今の自分に、弟子に対して手心を加えるような余裕は残されていなかった。少なくとも、実践経験の浅い少年相手に、大人げなくも隙を見せて誘いを仕掛けなければならなかった程度には。
そう考えれば、自分のいない二週間の間に……この少年は、一体どれだけの成長をした事だろうか。きっと旅に出てからも、この少年は何か刺激を受ける度に。それをこうして、自分の力としていってくれるのだろう。
何はともあれ、今日の所は。
「メイ。見ての通り、私の勝ちだ。これで文句は無いだろう」
ランはメイの方へと向き直り、言った。
息一つ乱さず無傷で立つランと、終始攻勢をかけながらも倒れ伏すルウ。
水が高きから低きに流れるが如き。太陽が東から昇り西に沈むが如きの、そういう当然の結末。勝ち誇るでもなく、ランはメイに言う。
だが、メイとリンはそうして倒れ伏すルウに、心配して駆け寄る訳でもなく。
「いえ、まだです〜。まだ、終わっていません〜……」
ただぎゅっとその手を握りしめ、固唾を呑むようにして少年の方を見つめていた。
その返事を聞いたランの声に、僅かな苛立ちが籠る。
「……メイ、いい加減にしろ。少年に止めを刺せとでも言う気か?」
「む〜、違います〜!だって……!」
「……ラン。後ろを見てみなさい」
「――何?」
メイに続けられたリンの言葉に、ランが弟子の方へと振り返えれば。
「……っ、はぁっ、はぁっ……!」
そこには、必死に呼吸を整えながら。ふらふらとよろめきながらも。
確かに自らの両足で立ち、続行の意思が籠った瞳でこちらを
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