「ねぇコウ、もう寝たほうがいいんじゃないの〜?」
耳に入るのになんの抵抗も刺激もない眠たげなその声は、まるで子守唄のようだった。ストレスなく脳に届くその歌声は、聞くものすべてを眠りに誘う。実際にその意図が明確に込められており、ワーシープのユミの本気の声だった。
「お…お願いだ、まだ寝かさないでくれ…これが終わったら寝るから…!」
「昨日も同じ事いってたよ〜。ねぇ〜コウ〜」
さらに力を込めるユミ。ふわふわの羊毛に身を包み、頭には丸くねじ巻かれた角が生えており、腰からは胴体の羊毛とはまた少し違ったタイプのふわふわの毛に覆われた尻尾を携えている。ワーシープとは、眠りに特化したような魔物娘であり、そのもふもふのふわふわにいざ一度包まれたら、まるで天使の羽に包まれたかのような安心感になり、羊毛に込められた眠りの魔力を吸収しすべてのものを深い眠りへと誘うのだ。彼女から発せられる声はすべて子守唄となり、その動作はやや子寝かしつける撫でる慈母の所作となり、彼女が本気を出せば眠らない人などいないのだ。
しかし今回の場合は少し事情があったのだ。声では眠りを誘う魔力を全力で込めているのだが、それ以外のワーシープの眠りの武器は使っていない。ユミは本気を出せていないのだ。
その理由は、目を真っ赤に充血させ、迫り来る睡魔に耐えるために唇を強く噛み、タブレットにペンを走らせ、液晶画面を睨み付けているこの男にあった。名前はコウ、イラストレーターの卵だ。彼は就活を目前に控えた就活生であり、希望する就職企業先に自分の実力をPRする作品制作に死力を尽くしていた。昔からゲーム会社に就職するために努力を重ねてきたコウを、ユミはよく知っていた。だからこそ、2日の徹夜を敢行していてもコウを強引に寝かしつけることを躊躇っていたのだ。
「ねぇ、コウ〜」
「…何?ユミ」
ユミは、コウが睡魔に敗北させるため、攻撃の手を緩めない。いつも眠たげで、ほとんど寝ているイメージのあるワーシープのユミも、この状況ではしっかりと目を覚まして積極的に話しかける。大好きな彼に、無理をしてほしくない。ただ安眠を届けてあげたいその一心だった。
「…最近ユミと一緒に寝てくれないよね」
「ぶほっ!」
その投げかけが意外だったのか、コウは思わず吹き出してしまった。おかげで少し目が覚めた。ユミの攻撃は失敗してしまった。
「何だよ急に…つかその言い方だと第三者に多大な誤解を招くからやめてくれ」
「どうして寝てくれないの?」
「どうしてって…それは…その…」
作業の手を止めてこちらに振り返って話をしてくるコウ。ユミはこれがチャンスだと思い、たたみかける。
「コウはちっちゃいとき、眠くなるとすぐに私にぎゅってしにきてたのに。今は全然してくれない」
「子供の頃の話じゃん!今とは、その…色々と違うんだよ…」
コウは昔のユミと一緒に寝ていた頃を思い出したのか、顔を真っ赤にさせて作業に戻ってしまった。しかし眠りの魔法はずっと送り続けている。コウも眠たさが限界に来ているはずだ。焦らず、確実に勝負に勝つ。ワーシープとしての意地があった。
「コウはわたしのおっぱいが好きだったもんね。触ると落ち着くからって、よく寝るときに揉んでたね」
「だあああやめて!昔の話!昔の話だから!今は違うから!」
ぶんぶんと首を横に振り回し、照れを隠すコウ。過去の痴情を赤裸々に掘り起こしていくユミ。コウ照れ屋で、この手の話には弱い。無駄な労力を使わせ、眠くさせる作戦だ。照れを隠すのにつられて、ペンを動かす手も世話しなく早くなる。
「コウは寝相が良くて寝てるときは大人しいんだけど、手癖は悪かったもんね。すぐにおっぱいを揉んできて…」
「嘘、俺寝ながらも触ってたか…ていうか起きてたのか…」
「うん。コウの寝顔がかわいくて、いつも寝不足だったの」
「だから学校でもあんなに寝てたのか…ってなんだよかわいいって!」
二人は小学校からの幼馴染で、ずっと同じ環境で育ってきた。趣味も話も合う、よき友人だった。彼女を魔物娘と意識することはなく関係は良好だったが、コウは彼女を女として強く意識してしまってから、高校の頃から肉体的な関係は距離をおいていた。肉体的な関係と端から聞けば一体何の情事かと思うが、ただ一緒に寝ているだけなのだ。彼女の人として、魔物娘として、女としての魅力は、ずっと一緒にいたコウ自身が一番よく知っている。自分がゲーム会社に就職を強く希望していて、なおかつその為に今睡眠時間を削って努力している事は彼女もよく知っている。そして、コウも自分の体調を気遣ってくれていて、でも自分の意思を尊重してくれているユミのことを知っている。コウは今、自分の意思を尊重するか、ユミの意思を尊重するか、天秤の真ん中で揺れていた。
「…寝ないの?」
「…もうすぐ終わるから、それまで」
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