夜の森は、少しばかり肌寒い。
薄暗い森の中を提灯と月明かりだけを頼りに歩くなんて恐ろしいことをする馬鹿なんてそうそういない。夜は獣の時間だからだ。昼よりも獰猛な獣たちにうっかり食い殺されかけたなんて笑い話にもならない。
草木が揺れる音が聞こえるたびに振り向いて全力で逃げだしたい衝動にかられるが、入ってしまったからにはせめて爪痕を、と謎の意地が俺に森を進ませた。子ども扱いされたのがそれほど悔しかったのかもしれない。
ばさり、と鳥の飛び立つ音が聞こえる。遠くで草を鳴らす音が聞こえる。虫の鳴き声が聞こえる。聞こえてくる音のどれもが恐ろしかった。
(……さっさと爪痕を見つけて帰ろう)
俺たちが森の奥、と言う時、多くの場合は森の休憩所の事をさす。休憩所といっても、森の奥の方に昼飯を食うための広場があるだけなのだけど。祖父の話から察するに、どうもその辺りの木に爪痕が残っているらしかった。確かに普段使っている場所に爪痕があれば俺でも怖い。
(でも、妖怪って、なぁ。馬鹿馬鹿しい)
――――もし、本当に妖怪がいたら?
一瞬そんな疑念が頭に浮かぶ。
もし見間違いや何かじゃなく本当に妖怪が居たら?
木に熊のそれと見間違えるような爪痕を残せる妖怪。
それはどんな化物だというんだろう。
ヒュン、ヒュン
今まで聞こえてきた音に混じって、微かに何かが風を切るような音が聞こえてきた。気が付けば広場のすぐそばまで来ていたようだ。木々の隙間から少し開けた景色が見える。
少し迷って、提灯は消すことにした。慣れた森の中だし、帰り道くらいは何とかなるだろう。大丈夫、危険だと思ったらすぐに逃げればいい。
木々の影に身を隠しつつ、そっと広場の様子をうかがう。
突き出される拳。気合を発する声が聞こえる。すかさず蹴りが空を切り裂く。息遣いが聞こえる。地面を蹴る音が聞こえる。
荒々しくも美しい、闘うための舞。
獲物を狩る獣のような、触れたら切れてしまいそうな刃物のような。
気が付けば、息を殺してその演武に見入っていた。
「――――そこに居るのは誰だ!」
突然、「それ」はこちらを向いた。
美しい女性だ、と思った。
『馬鹿か「虎」は!何してるんだよ!』
『やっと会えた男なのに!』
『殿方を逃がしてしまうなんて……』
頭の中で『私達』の声がぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる。先ほどこちらをのぞき見ていた男を脅かしたこと、逃がしてしまったことを怒っているらしい。
『あんなに怖がらせちゃってさあ、まったくもう』
『ううう、男ぉ……』
「仕方ないだろう!あんな風に覗き見られるなんて……恥ずかしかったんだ!あんなに熱心な目で見つめられてみろ!照れ隠しの一つもしたくなるだろう!?」
『照れ隠し……』
『まあ「虎」のしてしまったことは仕方ありません。それより、これからどうするか、でしょう?』
『じゃあ私が行くわ。「虎」、かわって』
「……すまない。後は頼んだ」
『頑張れ『狸』!すべては爛れた明日のために!』
『……『猿』はもう少し自重しなさいな』
そうして、意識が『私』から『私』へ移り変わる。
「……っと。久しぶりだなぁ、この身体も」
『普段は『虎』に任せきりですからねえ』
『まあ一番真面目だし?』
『……その結果こうなってしまったわけだろう?』
「そう落ち込みなさんなって。えっと、方向は向こうだっけ?」
『そのはずです』
「じゃあ行こうか。……話だけでも聞いてくれるといいけど」
「はっ、はっ、はっ、」
走る、ひたすらに走る。途中で手に提灯を持っていないことに気付いたが、どんなことはどうでもいい。
「はっ、はっ、ははっ、あはははは!」
夜の森に気持ち悪い笑い声が響く。誰だよ大声を出すなよ、と思ったら俺だった。笑い声をあげながらめちゃくちゃに突っ走り、木の根っこに足を引っ掛けて転んだ。あまり痛くない。そのまま仰向けに寝転がると、枝葉の隙間から夜空が見えた。笑い声は止まらない。
(あんなに、綺麗な、あんな、なぁ)
誰だあれを妖怪だなんていったのは。いや、妖怪なのかもしれない。手足も尻尾も、人間にはあんなものついていない。どうでもいい。むしろ納得できる。あんなに綺麗なものが人間であるはずがない。そうか、あれは妖怪か。綺麗だった。美しかった。あのまま爪で切り裂かれていたら、どんなに幸せな気分で死ねただろう。彼女に殺ろされるなんて、なんて、なんて幸せだろう。あれに殺されるのなら本望だ。ああ、気持ち悪いな俺。触れたい。触れられたい。
「あははは、あは、あぁぁああ……」
はぁ、とため息が漏れた。もしかしたら幻だったのかもしれない。それでもいいや。よくない。もう一度、あの姿を見たい。話をしたい。自分のものにしたい
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