「ボスなら今出かけてるぜ、パル」
一夜明け、宿屋の窓から朝の日差しが室内に差し込んでいる。部屋の中をそわそわと歩き回るパルムに対して、柔らかいチーズの塊をかぶりつきながら、ドミノが話しかける。
「お前は寝てたから知らないだろうけど、昨夜城からの使いだって名乗るデュラハンが二人、この宿屋に来たんだ。何でも城の方でボスに会いたいって言うお偉いさんがいるから、明日の朝に城まで来いとさ」
「それで今朝になってその二人がまた来たかと思うと、そのままコレールを窮屈そうな礼装に押し込んで、愚痴を言う彼女を馬車に連れ込んで行ってしまった……気の毒に」
ベッドの端に腰かけていたアラークは愛情を込めて最後にそう付け加えると、さくっと音をたててリンゴにかじりつく。
「そう不安そうな目をするな……午前中には戻ってくるそうだ」
アラークはそう言うとパルムに向かって柔らかな笑顔を向けた。
ーーーーーーーー
城に向かうコレールを見送ったクリスは、多少無理を言ってでも同行するべきだったかもしれないなどと考えながら、歯を磨くために水飲み場の近くまで足を運んだ。
「あら……やだ、誰か歯ブラシを置き忘れてるわ」
そこに置き忘れられていたのは、木製の柄に青色の塗料で印をつけた歯ブラシだった。
「(えっ、ちょっと待った。これ確か昨日アラークが使ってたやつじゃない!)」
クリスは手に取った歯ブラシを暫くの間無言で見つめていたが、突然腕を伸ばして顔から引き離すと、脳内に浮かんだ邪な考えを取り除こうとするかのように、頭を左右に激しく振り乱した。
「(駄目よクリス! それは流石に駄目! 端から見たら気持ち悪いにも程があるわ!)」
クリスは不機嫌な時の猫のような唸り声を上げて葛藤する。彼女の頭の中では、煩悩と理性が互いに火花を散らして争っていた。
「(で、でも……ちょっとだけなら……)」
……。
パクっ、シャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコシャコ……
「おい猫、それ俺の歯ブラシだぞ」
ピタッ
自身の真横から届いた聞き覚えのある声に、クリスの腕の動きが停止する。それと同時に、彼女の顔色がみるみると青ざめていく。
「アラークの歯ブラシとは紛らわしいことになってんだよな。俺のは柄の先端が割れてるんだよ」
「……っ……!?……」
クリスは首の部分が酷く錆び付いたからくり人形の様な動きで、ゆっくりと声の主のいる方向に顔を向けた。
ーー10分後。
「なぁ……パル。女って理不尽な生き物だと思わないか?」
「?」
左頬に肉球型の腫れを作ったドミノが、パルムに対してそうぼやくのだった。
ーーーーーー
一方、領主の住む城を訪れたコレールは、前を歩く二人の騎士に向かって、ぶつぶつと不平を投げ掛けていた。
「なぁ、この服どうにかならないかな? 胸元がきついし、歩きにくいんだよ」
「……」
「それにあんたら、二人ともデュラハンって嘘だろ? 何でそんな魔物娘にはすぐばれるような嘘をつくんだ?」
「……」
「……分かったよ。もう何も言わないさ」
二人の騎士は上階の廊下を進んだ奥にある部屋の前で歩みを止めると、片方が扉をノックして、「例の女を連れてきました」と小窓越しに話しかけた。
「構わん、入ってこい」
部屋の中から帰ってきた言葉を確かめると、騎士はコレールに向かって「入れ」と言ったきり、扉の両端の壁の前に立って、その場を守るガーゴイルの如く沈黙した。
扉を開けたコレールの目に入ってきたのは、木製の書斎机の前に腰かける初老の男だった。地味な配色ではあるが上質な服を纏い、こちらを射抜く様な視線で見つめてくる姿は、年老いて尚戦い方を忘れていない獅子を思わせる。
「コレール=イーラだな?」
低く唸る様な男の声に黙って頷くコレール。
「私はムストフィル3世。ハースハートの国民には内密で、この国の視察を行っている」
コレールはウィルザードに上陸する前に、クリスから国の内政についての教示を受けた際に聞いた名前を思い出して、息を呑んだ。
「ムストフィル……つまりあんたはウィルザードの皇帝か」
「正確には『元』皇帝だ。上皇と呼んでもらっても構わない。皇位は既に息子に譲っている」
その言葉を聞いたコレールは、更にウィルザードの皇室における伝統についての話を思い出した。
ーーウィルザードの皇帝は退位して上皇になると、容易に帝都から離れることが出来なくなる若い皇帝に代わって主要な領国を視察して巡り、そこで得た各国の情勢に関する資料を元にして、新たな皇帝に政治決定の方針を提案するのであるーー。
「この国
[3]
次へ
[7]
TOP [9]
目次[0]
投票 [*]
感想[#]
メール登録