「そろそろいい具合になってきたかな?」
ふと、辺りに食欲をそそる香りが立ち込めていることに、ラトアーヌのつぶやきを聞いてノアはようやく気がついた。
それだけこのワインの虜になってしまったのか……みれば辺りには空っぽのボトルが二、三本転がっている。
……すべて、62年もののシャトーラトアーヌだ。
それなりに高い契約料をいただいているノアの身でも、三ヶ月間節制してやっと一本という超高級品がこんなにも胃の腑に流し込まれたのかと思い、彼の背筋をゾッとしたものが走る。
「どうしたんだい?ぼーっとしてさ。君の分」
「え?ぁ……ありがとうございます」
ラトアーヌの声で我に返ったノアは、差し出された木の器を両手で受け取った。
器の中には白い湯気をあげるビーフシチューがなみなみと注がれている。
香辛料と食材の香りと合わさり、先ほどとはまた違ったシャトーラトアーヌの芳醇な匂いだ。
空きっ腹が刺激され、ノアの喉がゴクリとなる。
「ほら、君のパン。是非とも浸して食べてくれたまえ。では……」
食材となった者たちへの感謝を祈り、ラトアーヌはシチューを口に運び始めた。
ノアもそれに習って祈り、器の中のシチューに白パンを浸して食べてみる。
「ぁ……美味しい」
たまらず口からこぼれ出た感想はシンプルなものであった。
煮込まれた牛肉はとろりと柔らかく、野菜はホロリと甘い。
そしてその旨味が溶け出したルウの繊細でやさしい味わい。
日中の気温で多量の汗をかいたノアにはこれ以上ないご馳走だった。
夢中で口に運び、スプーンで皿の隅まで綺麗に食べ尽くし、あっという間に中身を空にしてしまった。
「ふふ、本当に君は美味しそうに食べるなぁ。おかわりはいかが?」
「是非に」
ノアの皿を受け取ったラトアーヌは、またもたっぷりとシチューを盛る。
それからノアは何回もおかわりをし、結局鍋の中はすっかり空っぽになってしまった。
「ふぅ」
腹がすっかり満たされたノアは、ほぉ、と満足げにためいきをついた。
美味い酒に美味い飯、それを美しい女性とともに頂けるのだ、こんなに素晴らしいことがあろうか、ノアはぼんやりとした頭でそんなことを考える。
「食後の一杯はいかがかな」
その言葉にラトアーヌの方を向いてみると、先程までとは違うラベルのワインを取り出し、ノアの返事も待たずにトクトクとカップの中に注いでいた。
「こんなに飲んだら、明日歩けませんよ……」
と、口とは言いつつも。
ノアは差し出されたカップを受け取って、その中身を揺らして眺めた。
濃い紫色の液体はまるで闇の概念をそのまま注ぎ込んだような色だ。
漂う芳醇な香りは先のラトアーヌワインとはまた違う。
「大丈夫さ、私たちのワインっていうのは酔いを引きずらないものなんだ」
「……そうでしたね」
なら遠慮することはないと、ノアはそのワインを静かに、喉に通した。
続けてラトアーヌもその一杯をまるで水のように口に運ぶ。
「う、あ……」
「……ふふ」
美味い、これも同じく、とても美味しいワインだ。
ノアは思わずそのカップの中身をあっという間に飲み干してしまった。
クラっと、強いめまいのような感覚、度数が高いのだろうか。
「うぅ、強いなぁ……ラトアーヌさん、これ、度数はどれほ、ど……」
顔を上げてラトアーヌの顔を見て、ふとノアは違和感に気がついた。
なんだか先ほどよりも随分と辺りが暗い……
日はすっかり落ちて、あとは焚き木に照らされていただけだったはず。
ちらりと火を見ても、勢いは衰えていないのだが。
(目の、錯覚かな……明かりをみすぎて目が慣れたのかな)
ゴシゴシと目をこすっても、その感覚が抜け落ちない。
ノアは不思議に思って、なんとなくラトアーヌを見つめた。
ラトアーヌの姿だけが、暗くなった周囲に対して妙にくっきりと映えて見える。
「どうしたんだい?眠くなったかな」
昼間の疲れかい?そう問いかけながらラトアーヌはノアのそばへと歩み寄り、その頬に手を当てた。
何故か、その当てられた手に胸が弾んだ感覚を覚え、ノアは戸惑いを覚える。
「昼間の戦いが尾を引いているのかな、もう、寝たほうがイイのかもしれないね」
そう言ってラトアーヌはすっと離れると、そのそばのバッグを手探りで探し当て、中から輝石のランタンを取り出した。
「さ、こっちへ」
手を取られて、されるがままにノアはラトアーヌに木の根元へと案内される。
隔絶された空間のはずなのに月明かりだけは二人を優しく照らしている。
ラトアーヌの揺れる髪と、白いうなじから、ノアは目が離せない。
(綺麗だ……)
まるで生娘のように弾む心臓に明らかな違和感を感じながらも、ラトアーヌに握られた手の感触が、彼女の微かな香りが伝わるだけでノアはもう堪らなく
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