半月の想い

 夜香木。別名、ナイトジャスミン。
 出勤前の父を捉まえて訊けば、そう教えてくれた。

 昨晩のこと。
 夜中に人の声らしきものが聞こえガラス戸を開けてみれば、誰もいない代わりに夜気に混じる芳香に気付いた。
 香りに惹かれて身を屈めれば、上がり口の式台に置かれていたのは、白く可憐な花をつけた小枝だった。花は萎れ気味ではあったが、取り敢えず花瓶に水挿ししておき、自室の卓上に飾って寝た。

 あの日以来。
 目が真っ赤に充血してから自宅療養していたのだが、炎症が退くのと入れ替わりに今度は熱が出た。熱と薬の副作用とで鬱悶とし、深く眠れずにいたのだが、花を飾ってからは不思議なくらいにストンと眠りに落ちたのだった。そして今朝はすっかり熱も下がって爽やかに目覚めることが出来た、という訳だ。
 ナイトジャスミンとは言い得て妙だと、晨は思う。きっとアロマテラピーのような効果が得られたのだろうと、腑に落ちた。
 朝になってすぼんだ花は、もともと地味な上に香りもしない。必要な物しか置いてない殺風景な部屋を、華やかに飾ることもない。けれど、晨はこの白い花が心の底から気に入ったのだった。

 だが、そもそもこの夜香木は誰が運んだのかが不可解ではあった。同時に、自分でも説明のしようがないが、確信めいたものもあった。
 不知火と名乗った、雑木林で会った不思議な女性。
 その女性の優しげな声が、甘やかな香りが、どこか懐かしい温もりが、耳に鼻に肌に甦る。

 朝食を摂り終えると、休日ということで時間もあり、お菓子作りに取り組んだ。作る物は二種類のゼリー。
 一つは庭に生る枇杷の実を使う。
 もう一つはロイヤルミルクティーで作るつもりだった。牛乳で茶葉を煮出すのではなく、先に茶葉を少ない水で煮て後から牛乳を入れ一煮立ちさせる方法を選んだ。その方が早く出来るし、煮出す時間が短いので香りが飛ばずに済む。……邪道と言う人もいるが。
 甘味は砂糖ではなく蜂蜜でつけた。枇杷ゼリーには蕎麦の花の蜂蜜を、ロイヤルミクティーゼリーには栗の花の蜂蜜を。
 それぞれ風味に癖があり、色も濃い。が、よく目にするレンゲやアカシアの蜂蜜と比べ栄養価――特にミネラルが多く健康に良い。それに、癖があるからこそ味に広がりがあり濃厚なコクもある。磯矢家の二人はすでに蜂蜜の魅力に取り憑かれ、白砂糖では満足出来ない舌になってしまっていた。

「そろそろかな?」
 ゼリーなど十五分もあればできるし、冷蔵庫で冷やす時間も一〜二時間あれば充分だ。出来映えを確かめてみればきちんと固まっていた。
 時刻はまだ午前中。昼食を食べてから出かけるべきだろう。だが晨は、待てそうになかった。
 ゼリーで満たされたカップとスプーンを保冷バッグに入れると、残りの玄米で適当な具材を握り弁当箱に詰め、麦茶でいっぱいにした水筒と一緒にこれも保冷バッグに突っ込む。
 それから、今回は忘れず帽子を被ると、
「行ってきます」
 自宅を後にしたのだった。
 焦燥感に急かされたのではなく、確固とした目的を持って。



「たぶん、これだよね……」
 雑木林の中にあって、少し開けて日当たりの良い場所がある。そこに、特徴的な小さな花々をこんもりと繁らせた一角があった。
 夏の濃緑が霞んだようになったその場所へと晨は近付くと、膝を折る。
 少年の顔よりほんの少しだけ低い位置に、限りなく白に近い薄紫の花が咲いていた。小さな小さな花弁と、ぴょこんと飛び出したおしべの束。まるで、猫の髭のようにも見える。

 それもそのはず。実際、この花は『ネコノヒゲ』というのだから。
 そして、薄紫に煙るこの下に、あの時の仔猫が眠っている。通りすがりの見知らぬ老人が墓を作り、目印になるようにと、この花群の下に埋めてくれたのだ。

「クチン、来たよ」
 クチンとは晨が仔猫につけた名だ。
 老人が教えてくれたネコノヒゲという言葉から、視力が回復した後にネットで調べた。この花は元々は東南アジアなどの熱帯の物で、マレー語で『クミスクチン』という。クミスは髭で、クチンは猫という意味だ。
 保冷バッグからゼリーを取り出し、墓前に供え、手を合わせる。猫がゼリーを食べるとも思えなかったが、相手は天国にいるのだ、きっと気持ちが大切なんだろうと勝手に結論づけた。

 ネコノヒゲの花言葉は、『楽しい家庭』。
 今度生まれてくる時は、大勢の家族に囲まれ、楽しく賑やかに暮らせれば良いと、晨は思い、願う。
 祈り方の作法など知らない少年は、彼なりに仔猫を弔い――最後に、猫髭みたいなおしべを撫でた。
 とたんに、あの小さくてふわふわした生き物のことを思い出してしまう。
 泣いたって、死者は喜ばないだろう。
 少年は気持ちを振り切って立ち上がり――戻るのではなく、川の方へと向かったのだった。



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