仔猫の心臓

 ウチはその時、少し早い昼ご飯を追いかけ回していた。
 丸々太った山鼠(やまね)で、茱萸(ぐみ)の木にぶら下がって赤い実を一心不乱に囓っていた。ウチはその実を食べたことはあったけど、甘くて少し渋い。美味いとも思うが、種が大きくて果肉が少ない。そしてそれよりも肉の方が好きなのだ。だから、枝からそいつをはたき落とし――正直に言うと捕らえるのにしくじり、こうして追いかけっこをしているのだ。
 木の根を乗り越え、草むらを掻き分け、ひょろんと細い尻尾に手が届く、その時だった。

 ウチはピタリと止まった。
 山鼠は全速力で逃げていくが、もうどうでもいい。
(なんで?)
 それに気付いてから、ウチの胸はどきどきしてる。走った時よりたくさんだ。

 だって、あの子の匂いがするのだから。

 どうして? ウチは思う。
 だってあの子は、毎日休まず山の前を通る訳じゃないから。お日様が五回昇り下りしたら、次の二回はお休みするのだから。

 ウチはちゃあんと知っているのだ。

 だって、毎日あの子が通る橋を見に行くのだから。
 あの子が来ないと分かっていても、念のために見に行くのだから。
 わざわざ見に行かなくたって、風があの子の匂いを運んでくるから、橋を通れば判るのに。
 そして、風が匂いを運んできたのだ、あの子の!

 何十本もある足をわさわさと動かして、急いで山を下りる。
 木々の間を蛇のように縫って這い、さっきの山鼠以上に一心不乱に駆け下り、滑り下りる。
 今なら、蝉だろうが鼠だろうが、猪が通り過ぎたってどうでもいい。
 ただ、あの子が近くにいるのが嬉しい。
 ただ、あの子を見られるのが嬉しい。
 話せなくても。ウチのこと、知らなくても……。

(おった)

 あの子がいた。
 しかも、人の通る道じゃなく、山の中に入ってきているではないか。まだほんの入り口で、まばらに生えた雑木林は道から透かし見える距離だけど。だけどそこは、立派な山の中だ。ウチの庭同然だ。

 ウチの庭に、あの子が入ってきてる。

 向こうから来てくれるだなんて。
 ウチに会いに来てくれた訳じゃないってことくらい、重々解ってる。
 でも、嬉しいものは嬉しいのだから仕方がない。

 ウチは忍び足でそっと近寄り、草木に潜みながら向こうを窺い見た。
 あの子は、木の根元に座っていた。いつもの服じゃない。最初見た頃の全身黒ずくめではなく、近頃見る白と黒の上下でもない。空色で模様の入ったのを着て、深い森みたいな色のを穿いていた。
 山の稜線みたいだなと、ぼぅっと思う。そう思うと、また訳もなく嬉しく思えた。山を住処にするウチと、なんだかお揃いな気がして。
 もっともっとよく見ようと、ウチは身を乗り出し、触角を限界まで伸ばす。
 何をしているの?
 膝を抱えるように座るその側には箱があった。その箱の中に、生き物がいる。

 仔猫だ。

 匂いで判る。
 あの子は時折、その仔猫にそろそろと手を伸ばし、撫でているようだった。
 それを見たウチは、美味しそうと思うよりも先に……胸がモヤモヤした。
 鼠を食べ損ねたから、腹の具合が良くないのだろうか? 空腹が上まであがってきたのだろうか?
 訳が解らない。解らないから、無視することにした。
 それよりもあの子だ。
 あの子は、座り込んだまま動こうとしない。

 もしかしたらだが……ひょっとすると、このままあの木の根元辺り住む気だろうか?

 ウチは、自分の考えに心臓が飛び出そうになった。
 そんなことになれば、嬉しさのあまりウチは死ぬかもしれない。胸は弾け飛び、足腰がバラバラになりそうだ。
 知らずにうねうねし出した触角は、うねうねからビュンビュンに変わりそうだったので、手で掴んで押さえ付けた。音など鳴らしてあの子に気付かれたら、大変だ。

 そう、気付かれたら大変なのだ。

 人に近い姿になったとは言え、百足は百足。きっと人間は怖がるに違いない。あの子は優しいから逃げないかもしれないが、それでも怖がるには違いない。
 だからウチも、ここでこうして潜んでいよう。隠れてあの子を見守ろう。
 幸い、ここには食べ物がたくさんある。蝉も、ゴキブリも、鼠も。夏だから寒くもない。少しくらい寒かろうが、お月様から貰った黒い着物がある。
 だから。あの子があそこにいる間、ウチもここにずっといよう。
 あの子が飽きるまで。
 ウチが死ぬまで。

 物陰からじっと見ている。
 しかし、何かおかしい。
 自分の考えばかりに気が回っていたが、こうしてよくよく見てみると、どこかがおかしかった。
 ウチは、鼻に比べて目は良くない。以前と比べればこの世が別世界のように見違えて見えるが、ずっと遠くまで見通せる訳じゃない。その目でじぃっと見つめれば、鼻や耳では捉えられないことが解
[3]次へ
ページ移動[1 2 3 4 5 6]
[7]TOP [9]目次
[0]投票 [*]感想[#]メール登録
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33