人間の子供

(そろそろだ)
 ウチは洞窟から外に出た。
 途端に、ヒグラシの鳴き声がワッと大きくなる。鬱蒼とした木々の間を縫って、風が吹き抜ける。
 東からは、潮の香りが。
 西からは、町の匂いがする。人の住む場所の匂いが。
 音の洪水と、たくさんの木々と、まとわりつく空気をかいくぐり、山の斜面を下っていく。
 夏は好きだ。寒くないし、食べ物もたくさんある。日差しは強いが、空気は湿っているし。
 だけど、今は季節を楽しんでる余裕はなかった。
 だって、あの子が通るのだから。
 だって、あの子の匂いがするのだから。
 土を蹴立て、草を滑り、ウチは一目散に山を下りる。長い髪をしゅるしゅる靡かせ、はだけた着物をひらひらはためかせて。川沿いじゃなくて、木の生えてるところを這い下りる。
 だってそうしないと、人に見つかってしまうから。この姿を見られてしまうから。

 たくさんの足をわさわさ動かせば、大した距離でなし、すぐに着いた。
 山から西へと流れる川に、南北に延びる道が交わる。その交わったところに石橋が架かっており、その橋を、人の集団が渡ってくる。
 人間の子供だ。
 あの中に、あの子がいる。
 色んな匂いが漂う中、あの子の匂いがする。
 ここからではまだ見分けられないが、でも確かにあの子の匂いがするんだ。
(ああ、早う早う、早うこん前ば通っておくれ)
 顔を見たい。声を聞きたい。もっと匂いを嗅ぎたい。
 けれど、子供達は橋の上でたむろするばかりで、なかなか先に進んでくれない。
(なんばしよるとやろ?)
 木々の間から身を乗り出し、長い触角をそちらへめいっぱい伸ばす。
 でも、まだ距離があるから聞こえない。
 それに、側の木で鳴く蝉が煩くて、音を拾えない。
(ああっ、やかましか!)
 顔も触角も橋の方へ向けたまま、ひゅっと腕を振る。すると、逃げる間も与えず捕まえることができた。手の中でじたばたするそいつを口に頬張り、ばりばりとかみ砕く。
 前と違い、腹の足しにもならない。が、少し静かになった。
 ざぁざぁという川の音もするが、川の流れは簡単には止められないから仕方がない。それに、あの川のお陰であの子に会えたのだ。やはり、止められない。

 あの子。

 人間の子供。男の子。
 黒い服を着て、白い鞄を提げて、持っていた棒きれでウチを助けてくれた。水を飲もうとしてそのまま川に流されたウチを。
 人間は、ウチを見たら逃げていく。中には棒で叩いたり足で踏み潰したりで、殺そうとしてくる者もいる。だからウチは人間が嫌いだったし、恐かった。
 けれど。
 あの子だけは違った。
 そのまま捨て置けば溺れ死んだだろうに。ちっぽけな生き物なのに。嫌われ者の毒虫なのに、優しくすくい上げてくれた。

 ウチはそれから変になった。

 側に蛾が留まろうが、目の前をゴキブリが通り過ぎようが、食べる気が起こらなくなった。そして、毎日毎日川まで通い、わざと水に落ちて流された。
 結局その方法ではあの子に会えなかったけれど。でもその代わり、お月様に会えた。お月様は、百足のウチを人間みたいにしてくれた。決して人間ではないけれど、それでも充分すぎるほどのお恵みで……。ウチはもう、満足なのだ。
 毎日毎日、朝と夕、あの子がこの山の前を通る。それを遠くから眺めているだけで良かった。
 今の姿になってから、もうニ、三十回ほどもお日様が昇り下りしたけれど。その間、あの子と話すどころか、顔さえ会わせていないけれど。それでも良かった。

(そう。それで良か)

 しかし、本当に何をしているのか。
 しばらく眺めていると、変化があった。
 あの子が、周りの子供達から取り囲まれ、なにやら大声で囃し立てられ始めたのだ。言葉がどうの、格好を付けるだ付けないだ、兎がどうしたの……と。
(なん? なんしよると? なんて言いよると?)
 耳をそばだて、触角にも集中するが、やはり上手く聞こえない。
 やがて、とんでもないことが起こった。
 一人の子供があの子の鞄を奪い取ったのだ。それを他の子達とで投げ合って、あの子に渡さないようにしている。
 あの子は何か言ってるが、鞄は返して貰えない。

(意地悪されとる!?)

 人間は、餌を獲るために襲ったり、身を守る為に戦う以外に、ああやって仲間を攻撃することがある。それが意地悪だ。元が虫のウチにはよく解らないが、それが人間という生き物らしい。
 いや……みんながみんな、意地悪をする訳ではない。現にあの子は意地悪をしない。しないどころか、毒虫のウチにすら情けをかけてくれた、優しい子だ。
(ああ、なんとか! なんとかせんば! あの子を助けんば!)
 だが、どうやって?
 自慢じゃないが、頭は良くない。お月様がいたら知恵を貸してくれたかもしれないが、ここにはいない。
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