早朝に降り出した雨は上がり、今年初めての蝉が鳴き始めた。
安普請の天主堂だ。蝉の声も、近くの雑木林で子供達が遊ぶ喧噪も、落ちきっていない雨だれの音さえも、中まで丸聞こえ。
この辺りの夏場はカラッと晴れ、気温もさして上がらない。お陰でテンサイが良く育ち、サトウキビの育たないここらの地域では、貴重な砂糖生産地帯だ。
礼拝所で跪きながら、青々とした畑を脳裏に浮かべ、豊作を祈る。
フィデルは、この村が好きだった。
司祭としての赴任地を希望した際、司教様も司祭様も、大変驚かれた。が、『最も貧しい土地に行きたいのです』と訴えると、二人は呆れたように笑い、許可してくれたのだ。
だが、この村は最も貧しい村ではなかった。
国内には、もっともっと貧しく、作物の育たない地域がある。そんな名も知られぬ貧村にしがみつき、必死に暮らす人々の存在を知った時、フィデルは恥じた。
都会育ちの世間知らず。
『神童』などと呼ばれ、浮かれていたのだ。
十五歳で神学校を卒業し、助祭に叙階された。高名な司祭の元で一年間修行し、十六で司祭に。
この村で四年間の任期を終えれば、二十歳で司教の座が約束されている。あと、一年。
だが、それで良いのだろうか?
漠然とした不安を、拭い去れずにいる。
――チリィン。
祈りから迷いに没頭していた頭が、直ぐさま切り替わる。
懺悔室に人が訪れたことを知らせる、鈴の音だ。
悩むのも、考えるのも、あとでいくらでもできる。
フィデルは、礼拝室の奥にある小さな扉を、深呼吸してから――開けた。
(花の香り?)
懺悔室は小さな個室だ。中央を壁で仕切り、礼拝室側に司祭が、反対側に告解者が座る。その二つの空間をつなぐのは、仕切りに開いた小窓だけ。カーテンの布地越しに、その芳香は漂ってきていた。
(嗅いだことのない香りだ。香水……とも違うような)
フィデルは首を振った。集中できてない。この向こう側に居る、悩める信徒に失礼だ。
椅子に腰かけ、小窓の向こうへ話しかける。
「悩める人よ、貴方がここを訪れた、それが既に信仰の証なのです。恥じることはありません。胸の内をつまびらかにし、悔い、改めるならば、神はきっとお赦しになります。さあ、最後の勇気を出すのです」
尊敬する師のように、ゆっくり、穏やかに、腹から声を出す。……そうしないと、少年から抜けきっていないアルトヴォイスのせいで、威厳が出せないのだ。告解者に安心感を与えるためには、こういったテクニックも必要になってくる。当初は拒否感もあったが、それも必要と何とか割り切った。
しばし、待つ。
蝉噪も、子供達の声も、どこか遠い。雑木林のある裏手側を向いているにしては、妙に外の音が聞こえ辛い。
ただ雨だれが地を打つ、ぽつり、ぽつりという音が耳に届く。
そして何よりも、この甘やかな香りに意識がいってしまう。
女性だろうか。
女性の信徒は苦手だった。新任司祭が若いと知ると、中には明け透けな内容を打ち明けて、狼狽える様を楽しむ者も居た。
密かに深呼吸し、胸元に下がるホーリーシンボルへと手を伸ばそうとした時だった。
「話を、お聞き下さいますか?」
たまゆら――思考を音で塗りつぶされる。
一色に染め上げられた世界に、しだいに……他の音が戻ってくる。
果たしてそれは声だったのだろうか?
いいや、声に違いない。人の、女性の声だ。
言葉は、一言一句、頭に染みついている。
気付けば、少し手が震えていた。
馬鹿らしい。今さら女性相手の聴罪に緊張するなど。
息を吸い、問いへ返す。
「聞きましょう。それが神の僕たる、私の役目です」
また、ややあって。
「手を、握っては頂けませんか? 神父様に拒絶されるのが、恐ろしいのです」
切々たる訴えはいかにもか弱く、胸が締め付けられる。全てをなげうってでも救いの手を差し伸べたくなる。
だがフィデルは心に呟く。この人だから助けるのではない。全ての信徒を救い、未だそうでない未来の信徒をも助けるのだ、と。
「私は決して貴女を拒絶しません、神の名に誓って。さあ、勇気を出して、一人で主の御前に立つのです」
女性に――とりわけ若いご婦人に気安く触れる訳にはいかない。
人は弱いから。
禁欲を旨とし、己を律し、神から授かった権能を我が物と勘違いせぬよう、常に心がけねばならない。でなければ、堕落しかない。
その為には、信徒に寄り添いながらも、線引きもしなければならない。矛盾しているようだが。
しかし、女性は言う。
「いいえ神父様。わたしがこれから懺悔致しますのは、神といえどもお赦しになるか判らないものなのです。ああ、口にするのは恐ろしく、胸に秘めたままでも生きてはいけません。このままではきっと、わたしの胸
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