あなたの匂いに魅せられて

 日本の夏は、いつからこんなに熱くなったのだろうか。
 冷房が入っているはずのオフィスに居ても、座っているだけでもじんわりと汗がにじむ。昼休みをいいことにワイシャツの胸元を広げて風を送り込みながら、俺はため息を吐いた。
 窓の外に目をやれば、無数のビル群がぬるりと光るアスファルトの上で太陽に炒められている。まるで世界がフライパンにでもなってしまったかのようだ。
 何だか首元が痒いな。と思って見下ろすと、小さな赤い腫れが出来ていた。いつの間にかまた蚊に食われていたらしい。
「ったく。どこにいるんだ」
 昔からあまり蚊には食われないたちだったのだが、今年はこの猛暑のせいか、なぜだか頻繁に蚊に食われる。
 体質の為か、腫れはすぐに収まるのでそんなに実害は無いものの、何度も虫に刺されるというのも気持ちのいいものではない。
「蚊取り線香か殺虫剤でも買って帰るか」
 昼休み終了五分前のチャイムが鳴る。昼飯を終えた女子社員がぞろぞろと戻ってきて、俺は急いで胸元を戻した。
「あ、先輩見ちゃいましたよー」
 新人時代に指導していた後輩だった。急いでシャツを整えたつもりだったが、だらしないところを見られてしまった。
「その首、どうしたんですかぁ?」
 長くつややかな髪は今時の若者には珍しい黒髪で、目もぱっちりと大きく、顔立ちも整っていて男ウケのいい女子社員だ。そういう女性はだいたい同性から嫌われがちだが、彼女の場合は性格も明るく快活で、女性からの評判もいいらしい。
 会社では名字呼びされるものだが、彼女の場合は親愛を込めてか、苗字の『藪野』よりも下の名前で『詩舞香ちゃん』と呼ばれている。
 新入社員の相談から年配社員の愚痴、仕事の出来不出来に関わらず誰に対しても真摯に聞いてくれる。本当にいい子だ。
 そんな彼女に油断したところを見られてしまったと思うと、なんだか恥ずかしくなってしまった。
「藪野か。お疲れさん。蚊に食われてしまったみたいなんだ。痒くて我慢できなくてな」
「なんだ蚊ですか。ビックリしましたよぉ。あの痕に見えちゃいました。場所が場所ですし」
「何のことだかよく分からないが、まぁ大したことは無いんだけどな。しかしこの夏はよく刺されて参るよ。今日こそ蚊取り線香と痒み止めでも買って帰らないとなぁ」
「それなら私いいもの持ってますよ」
 そう言って彼女は、カバンの中からピンク色の物体を取り出した。一見しただけだと何なのか分かりづらかったが、よく見てみればそれは非常になじみのあるものだった。
 渦を巻いた線香と小さなスプレー缶。つまりこれは。
「はい。蚊取り線香と制汗スプレーです。新商品らしくてこの間買って使ってみたんですけど、効果がすごかったので、よければ使ってください」
「制汗スプレー?」
「はい。虫って汗の臭いに引き寄せられて来るみたいですから、汗を抑えるだけでも効果があるんです。それにこのスプレー新商品みたいで、制汗剤だけじゃなくてオーデコロンや虫除けしても使えるみたいなんですよ。これで悪い虫からもさよならですね。
 結構いい匂いですから、今度は女の子が匂いにつられて寄ってきちゃうかもしれませんよぉ?」
「そりゃありがたいな。まぁCMじゃあるまいし、スプレーしたくらいじゃ変わらないだろうが。けど、知ってるか? 血を吸う蚊は雌だけらしいぞ」
「ふふ、すでに女の子にモテモテなんですね」
「まぁ相手は虫だけどな。とにかくありがとう。使ってみるよ」
 俺は笑顔を返しながら、そのファンシーグッズみたいな虫よけセットを受け取った。


 いつもどおりに安アパートに帰った俺は、まずは風呂で一日の汗と疲れを落とした。
 下着姿のままで冷蔵庫から発泡酒とさきイカを取り出して、茶の間に腰を下ろしてテレビを付ける。
 画面の向こうでは小奇麗な格好をした人達が笑ったり驚いたりしていた。だが、その内容は一向に頭に入ってこず、特段興味もわかなかった。
 チャンネルを回してみても、何かのドキュメンタリーや、都市伝説がどうとかいう、本当かどうか分からない事を過剰に面白おかしく騒ぎ立てている番組ばかりだった。
 感心するとすれば、その編集技法と映像技術くらいだろう。猫や昆虫や爬虫類の格好をした女の子が出てきたが、どれもただのコスプレには見えないほど自然だった。
 魔物娘というらしい。ここ最近、テレビやネットでしょっちゅう見かけるようになった。いやはや、流行りというものはよく分からない。
 とはいえ、あれは全てCGだろう。あんな生き物が現実にいるわけがない。
 興が覚めてきて、いつもどおりにNHKにチャンネルを変えた。
 別に面白いからと何かを見ているわけでも無いのだ。さりとて、無音の部屋に独りで居るのも耐えがたくてテレビを消す事も出来ない。
 それに、ほかにやりたい事が
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