仕事から帰ったら、誰かが掃除や洗濯、料理を済ませてくれている。独り者であれば誰もが一度は夢見るシチュエーションの一つだ。
けれどもそれは夢だから良いのであって、現実にそれが起こった時には喜びよりも恐怖が先立つのだと、自室で立ち尽くしながら俺は実感した。
金曜の夜。無事迎えられた週末に帰宅の足取りも軽かった。
だが心が軽かったのはそこまでだった。鍵を開けて安アパートの自室に入るなり、俺は明らかに何かがいつもと違うということに気がついてしまったのだ。
それはほんの僅かな変化だった。
例えば読み散らかされていた雑誌や小説が片付けられている事。
シンクに入れっぱなしにしてあった食器が片付けられている事。
放っておいた衣類がすでに洗濯されて折りたたまれている事。
いつか替えようと思っていた布団のシーツが変えられている事。
風呂場が見違えるほどに綺麗に掃除されている事。
家具の間取りは何も変わっていない。
何年も張りっぱなしのアニメのポスターもそのままだ。
無くなったものは何も無い。
部屋中を確認したが貴重品も無事だった。
パソコンを操作された形跡もない。
部屋から奪われたものは何も無い。
ただ見知らぬ誰かの善意が加えられただけだ。
しかし一向にして感謝の気持ちは湧いてこなかった。むしろ腹の底から、居心地が悪くなるような冷たいドロドロが染み出してくるようだった。
仕事が激務過ぎてとうとう頭がおかしくなってしまったのか? 頭を振って視線を下ろすと、恐ろしい物が目についてしまった。
「嘘だろ」
テーブルの上で、作りたてらしき夕食が湯気を立てていた。
米粒一つ一つがつややかなご飯。
ネギ、わかめ、タケノコの入った、優しい匂いを立てる味噌汁。
一個一個が大きい、表面がカリカリに揚げられた鶏の唐揚げ。
人参やインゲンやレンコン等が入った、彩りも豊かな野菜の煮物。
見事な献立の夕食。しかも俺の好物ばかりだった。
ここは本当に俺の部屋なのか? もしかして隣の部屋に入ったのでは?
念のため一度部屋から出て表札や部屋番号を確かめる。が、やはり自分の部屋で間違いは無かった。
部屋を出るときには、常に窓も玄関もしっかり鍵がかかっていることを確認している。
誰にも合鍵など渡していない。
なら、一体誰が……。
俺は視線を感じ、ふと後ろを振り返る。しかし、いくら部屋の中を見回しても、やはり誰も居なかった。
夏を控えて蒸し暑いはずなのに、下腹が寒くなってくる。自分の心音と呼吸音がやたらと耳についた。
どうしたら良いのかわからなかった。誰かの声を聞きたくて、俺はとにかくテレビを付けた。
画面の中で誰かが笑っている。どこかで殺人事件が起きたようだ。その影響で気圧は不安定になり、為替変動は円高に傾いているらしい。逆転サヨナラホームランで早くもマジックが点灯し、あとはお鍋で十分煮込んで完成したものがこちらになります。
テレビの内容は何一つ頭に入ってこなかった。
目の前には美味そうな料理が並んでいる。腹は減ったが、誰が作ったかも分からないものに手を付ける気にはなれなかった。
どうすればいいだろうか。
部屋の中は確認した。押し入れにもトイレにも浴室にも、おおよそ隠れられそうなところには誰も居なかった。
窓や玄関の鍵も掛かっている以上、この部屋に俺以外の誰かがいるということは考えられない。
けれど、何かがいるという妙な確信が消えてくれなかった。
警察を呼んだほうがいいだろうか。しかしなんと言えばいいだろうか。何かが奪われた形跡はない。誰かが侵入した形跡があると言っても、証拠が無くては信じてもらえないだろう。
それならどこかに逃げようか。けれど、どこへ。
恋人など生まれてこの方居た事もない。突然深夜に誘えるような友人もそばには居ない。地元に帰るには時間がかかりすぎる。
馬鹿馬鹿しい。住み慣れた自宅から逃げようとするなど、大の大人が一体何を考えているのだろうか。
しかし確かに視線を感じるのだ。時折、衣擦れの音も聞こえる気がする。このままでは、いっそ野宿でもしたほうがマシに思えてくる。
俺はため息を吐いてテレビを消した。
疲れているのかもしれない。ゆっくりと身体を温めて疲れを取れば、気持ちも変わって妙案も浮かぶかもしれない。
俺は着替えの準備をして、風呂に入ることにした。
ゆっくりと湯船に浸かるつもりが、気付けば気忙しくシャワーだけ浴びて身体を拭いていた。
誰かが部屋の中に居るのではないか。そんな妄想が脳裏にこびりついてどうしようもなかった。
俺が居ない間にまた何かが動いているのではないか。もしかしたら誰かが浴室を覗いているのではないか。考えだしたら居ても立っても居られなかった。
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