世捨ての里の白澤

 人里から遠く離れた山奥の森の中で、人目を避けながら質素に暮らす一人の男が居た。
 小さな庵に居を構え、獣の鳴き声や鳥のさえずりに耳を傾けながら畑の手入れをして暮らす。静かで起伏のない、退屈な生活。けれどそんな生活こそが、彼が望んでいたものだった。
 彼は今日も畑に出る。唯一の仕事であるとともに癒しでもある、野菜の世話をするために。
 気持ちの良い晴天の下、ひたすら手を動かす。そして彼がようやく無心になり始めた、そんな時だった。
「おーいリエン。どこにいるのじゃ、遊びに来てやったのじゃ」
 静寂を破って、元気いっぱいの甲高い声が山中に響いた。
 男は溜息を吐きながら草を取る手を止める。
 特に誰かを招いた覚えはなかった。招く招かないに関わらず、こんな険しい山の中を訪れる人間など居はしない。そう、人間は。
 必然的に相手に見当はついたものの、それでも彼は一応顔を上げる。
 住処にしている庵の入り口に予想通りの人影が立っていた。
 雪のように白く長い髪。側頭部から伸びる水牛のように立派な角。獣毛に覆われた蹄状になった二本の脚。腰元から生えるふわふわの毛に包まれた尻尾。
 道士服を身につけてはいたが、どう見ても人間では無かった。彼女は妖怪。白澤と呼ばれる、牛のような特徴を持った種族なのだ。
 立ち上がると、彼女は目ざとく彼を見つけて声を上げた。
「おぉリエン。そんなところにおったのか」
 破顔一笑し、リエンに向かって一直線に駆けて来る。
 妖怪は人間とは比べ物にならないくらいに力が強く、人間にはない神通力を持つ。そして時に人間を襲う者もいたが、しかし彼女は人に危害を加えるような恐ろしい妖怪ではなかった。
 人懐っこい笑顔を浮かべた彼女は、その勢いのまま彼に抱きついてきた。頭の位置はまだ彼の腰のあたりくらいまでしかない。彼女は人間でもなかったが、まだ大人でもなかった。
「さぁ、早く遊ぶのじゃ」
 目を輝かせる妖怪の子供の姿に、リエンは漏れそうになる溜息を何とか飲み込んだ。
「まだ仕事中なんだ。これが終わったらな」
「む。そうじゃったのか。それならそうと早く言うがよいぞ。万物に通じる膨大な知識を持つわしが手伝ってやろう」
「雑草取りだが」
「ならばわしが効率的かつ効果的な草取りの方法を教えてやろう。見ているがいいのじゃ」
 言うが早いか、彼女はすぐさま膝をついて野菜の根本の雑草を抜きにかかる。服の裾や長い髪が地面についてしまうのにも気にする様子もなかった。
 リエンは苦笑いしながら彼女の髪をまとめてやり、裾を縛ってやる。
「む。ありがとうなのじゃ!」
 その一生懸命な姿、屈託のない笑顔を向けられては、リエンももう彼女をむげにすることは出来なかった。


 畑仕事の後、狭い庵の中で二人は象棋の碁盤を挟んで向かい合っていた。
 長考の末、よろずの知恵の持ち主を自称する妖の少女はようやく駒の一つを動かした。
「これでどうじゃ」
 リエンは碁盤を一瞥するなり無造作に駒を動かす。
 その途端、少女は低く呻いて何度目かの長考に入った。
「うむむ。これをこうすれば……。いやしかしそうすると」
 リエンは笑い、それから片手に持っていた書物へと目を落とした。
 書かれているのは人間が虎に変わってしまうという物語だ。そのせいだろうか、リエンはふと、無意識のうちに過去の記憶を掘り起こしてしまった。
 あまり思い出したくない、己の過去を。



 リエンが地位も権力もかなぐり捨てて人目を避けるように山奥に一人で暮らすことに決めたのは、ひとえに人間社会に嫌気が差したからだった。
 生まれ育った農村はあまり豊かな土地柄ではなかった。村民は皆飢えていて、租税の払いに追われていた。
 しかし、だからと言って村民同士の結束が強いわけでもなかった。病人が出れば裏で悪事を働いたからだと陰口を叩き、たまたま農作物の出来の良い家があればそれを妬んだ。
 誰もが体制に不満を持っていながらも、村人達は決して一つにはなれなかった。一丸となっての交渉や反乱など、あり得るはずもなかった。
 リエンは生まれた村に嫌気がさしていたものの、それでも家族がいる以上は耐えるしか無かった。己はろくでもないと思っていたが、己を育てた両親は故郷を愛していた。
 しかし我慢が続いたのも、その両親が存命の間だけだった。
 それは寒さの厳しい冬のことだった。元々身体の弱かった母が病魔に伏してしまったのだ。
 彼も、彼の父も必死で看病した。少しでも精がつくようにと食事も母親を優先したが、それでも備蓄が底をついてしまった。
 食料を譲ってくれないかと、村中に頭を下げて回った。必死だった。
 しかし、彼らに救いの手は伸べられなかった。
 寒さは強まり、看病の甲斐もなくリエンの母親は命を落とした。
 そして彼の父親
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