長く続いていた雨は夜のうちにいつの間にか降り止んでいたらしい。朝の太陽が気持ちの良い青空を連れて来ていた。
男は唯一の家族である母親の食事を用意すると、夕暮れには戻ると声をかけ、釣り具を持って船を出した。
波は穏やかで、日差しもそれほど強く無く、絶好の釣り日和だった。男は魚の多そうなポイントに目星を付け、釣り糸を垂らして当たりを待った。
当たりはなかなかやって来なかったが、幼い頃からこの方法で食いつないできた彼にとっては、待つことはそれほど苦ではなかった。
太陽が少しずつ中天へと昇りゆくのと共に、日差しも少しずつ強くなっていった。小麦色の肌に汗が滲み始めるが、時折吹く海風のおかげで暑さもそれほど感じはしなかった。
ジリジリと太陽が照りつけ始める頃、ようやく手元に確かな手ごたえがやってきた。ここからが釣りの本番。魚との一対一の戦いの始まりだった。
逃げ回ろうとしている時に無理に引いては、糸を切られ、下手すれば竿を痛める可能性もある。相手の状況を探りつつ、男は手元に力を込めては緩め、決定打の瞬間を探り続ける。
長いようで短いような睨み合いの末、先に根を上げたのは魚の方だった。獲物の一瞬の油断を突き、男は一気に竿を引き上げた。
水飛沫とともに、陽光を照り返す青銀色の煌めきが中空に躍り出る。
……が、水面から跳び出して来たものはそれだけでは無かった。水面が爆発したような飛沫と共に、もう一つ大きな影が飛び出してくる。
「やっほー。アクト、久しぶり」
はつらつとした美しい顔つきに、健康的な色気を宿した女性。しかしその丸みを帯びた上半身に続く下半身は、人間ではなく蛸のそれだった。
人外の存在。スキュラと呼ばれる、海の魔物。
人間達から化け物として恐れられている彼女は、しかし船を大きく揺らしながら転がり込んでくるなり、人懐っこい笑顔で男に抱きついた。
「久しぶりだな、レイ。よくここが分かったな」
体重を預けてくるスキュラのレイの身体を抱きとめながら、釣り人、アクトはそれほど驚いた様子でも無く返事を返す。
「いつも言っているじゃない。そこが海の上なら、アクトがどこに居たって私には分かるんだって。アクトのいい匂いがするとじっとしてられないんだよ」
「海中でも分かるのか」
「魔物と人間の嗅覚を一緒にしないでよ。私達の鼻は、好きな人がどこにいたって追いかけられるように出来てるんだよ」
アクトはレイの髪を撫でてやる。
「そうか。おれもお前の顔を見られて嬉しいよ」
「えへへ。ねぇ、釣りしてお魚取ってるんでしょ、手伝ってあげる」
そう言うなり、レイはアクトの身体からぱっと離れて、再び海の中へと跳び込んでいってしまう。
「あ、おい」
伸ばしたアクトの手は何も掴めず、その手は空を切っただけだった。
行き場を失った手で、アクトは頭を掻いた。
「お前が暴れたら釣りにならないだろうが」
小舟の上で揺られながら海中を横切る大きな蛸の影を眺めつつ、アクトはふと彼女と出会った頃の事を思い出していた。
出会いのきっかけは偶然だった。数年前、アクトが釣りをしていた時に、たまたま魚ではなくレイの持ち物を釣り上げてしまったのだ。
漂流物にしては色鮮やかで、生地もしっかりした綺麗な一枚の布だった。アクトが不思議そうにそれを眺めていると、水面が弾けて、胸元を手で隠した上半身裸の娘が現れた。それがレイだった。
つまり、アクトはうっかり魔物の衣服を釣り上げてしまったのだった。
改めて思い返してみると、なんだかおかしくて笑ってしまう。あの時は、まさか自分と彼女がこんな関係になるとは夢にも思わなかった。魔物を辱めたのだから、食い殺されるか、少なくとも片腕くらい持っていかれるかと本当に恐れ慄き、死を覚悟した。
怒りに顔を真っ赤にして、身を震わせながら今にも噛み付いて来そうな魔物に、アクトはただただ素直に謝った。謝ることしか出来なかったのだから当然ではあったが、それでも逃げることもせず、言い訳もせず、精神誠意謝った。
そんな素直な態度が良かったのか、魔物はアクトが力んで握りしめていたものをひったくると、それ以上アクトを責めることもせずに海の中へと帰っていったのだった。
そして次の日から、彼女はアクトがこうして海に釣りをしに来るたびに、彼の元を訪れるようになった。
最初は裸を見た責任を取れとか、代価を払えといった冷やかしだった。やがてそれが海底の魔物達の世界の世間話に変わり、そのうち気さくに話が出来るような間柄になっていた。いつの頃からか手伝いと称して魚を取ってくれるようになり、気がつけば今のような関係だった。
アクトは人間。レイはスキュラと呼ばれる、人間の女性の上半身に蛸の下半身を持った海の魔物だ。
元々住む世界が違う。本来交わる
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