電車の扉が開くと、狭い鉄の箱の一体どこにそれだけの人数が収まっていたのだろうかという程の大勢の人間が吐き出されてくる。
土曜日の夜を行き交う人の量は多く、種類も様々だった。洋服や顔色の色鮮やかさに、目が回りそうになる。
様々な色が混ざり合った人間の渦を眺めているうちに、ふと、頭の中に疑問が浮かぶ。
人間が生きている。と言うのはどういう状態を指すのだろうか。
朝起きれば、ろくに飯も食わずに電車の時間に追い立てられるように家を出て、すし詰め状態の電車に揺られて会社へたどり着き、一日の大半を無理を言うお客からの罵声や、理解の無い上司からの嫌味に耐え続ける。
定時からずいぶんと時間が経った頃合いにようやく会社を出て、家に帰れば最低限の始末だけ付けて布団にもぐりこむ。
そして目を瞑ったと思ったら、もう次の日が始まっている。
最近では土曜さえ職場に通っている有様だ。日曜日は疲れ切って一日泥のように眠ってしまうため、自分の時間などまるで持てない。
楽しみと言えば、寝る前の僅かな時間にインターネットで動画を見たり、投稿小説を読んだりする事くらいだ。しかし誰とも趣味を共有できていないから、話をできる相手はいない。
こんな生活を送っている今の俺は果たして生きていると言えるのか。たった二百字にも満たない文字数で表現できてしまう無味乾燥な一日を繰り返す生活を送っていて、胸を張って生きていると言っていいのか。
確かに生物としては生きている。雨風を凌げる部屋もある。飢餓に苦しんでいるわけでも無い。生存してゆく条件としては恵まれているのかもしれない。
けれど、人としてそれで充分なのだろうか。
こんな事を考えられる程度の余裕はあるのだから、俺はまだマシな方なのかもしれないが、しかし、それでも……。
目の前を流れる人の波の中には、俺と同じようなくたびれはじめた勤め人から、まだ苦労を知らなそうな学生や、化粧の濃い派手な女、魂が擦り切れきってしまったような中年の男、有名私立の制服を身に付けた小中学生、何日洗ってないのか分からないような服を着た浮浪者然とした者まで、本当に多種多様な人間が居る。
俺より大変な人間など、それこそ掃いて捨てる程いるのだろう。
だが、相対的に自分が幸福なのかと聞かれれば、やはりそうとも思えない。
俺は自分の胸に手を当てる。みぞおちのあたりが鈍く痛んだ気がした。最近胃腸のあたりがずっとこんな調子だった。
人間、誰だって自分にとっての絶対的な基準となるのは自分の身体の感覚しかない。想像した他人の大変さや苦労など、自分の疲弊感や痛みの前では、吹けば飛んで行ってしまうような空虚なものでしかない。
……それとも、自分が弱く、浅ましい人間だから自分の事ばかり考えてしまうのだろうか。
ちくりと痛む胸をさすりながら、俺はベンチから立ち上がる。そろそろ電車に乗らなければならなかった。
電車に揺られる事数分。気が付けば景色が変わっていた。
周りの乗客は一変し、窓の外の明かりの数も大分減っている。いつの間にか立ったまま眠ってしまっていたらしい。
「あ」
目の前で扉が閉まってゆく。見覚えのある駅だと思えば、この駅こそ本来下りるべき駅だった。
俺はため息を吐きながら、ざわつく胸を落ち着かせる。
疲れているからだろう。働き始めてからこういったことが多々あった。だが、今回は一駅程度で済んでまだ運が良かった。これが終着まで行ってしまっていたら、きっと今日中には帰れなかっただろう。
次の駅で降りて戻りの電車の時間を確認すると、どうやら待っているよりは歩いて帰った方が早そうだった。
前にもこんな事があったので、帰りの道は分かっていた。盛り場の通りを歩き続ける騒がしい帰り路だが、短時間の我慢だ。それに、こんなに辛気臭い顔で一人で歩いている男を捕まえようとする客引きもそうはいないだろう。
どぎついネオンの明かりが目に染みて、俺は目を伏せて下向きに歩いた。
飲み屋街だけあって人は多かった。酒が入っているのだろう、皆どこか気持ちが大きくなっているようなそぶりで、声も大きかった。
目も耳も痛い。酒や煙草の匂いで鼻も辛くなってくる。
早く帰りたい。
俺は苦痛に耐えきれず、路地裏に入った。
通った事の無い道ではあったが、駅への方向を考えると近道になりそうな道だった。仮に遠回りになったとしても、静かで落ち着いて帰れるならそれで十分だ。
しばらく歩いてみるが、残念ながら近道と言うわけでは無いようだった。
ただ、ネオンも人気も少ない、静かな場所ではあった。
不思議と盛り場からさほど離れていないにも関わらず酒と煙草の匂いはしなかった。どこかで香でも焚いているのか、甘い匂いがした。
「お兄さん」
変声前の男の子のような、け
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