燃える恋は拳を交えるかの如く

 雲行きは怪しかった。空には厚い雲が立ち込め、今にも降り出してきそうだった。
 気圧は低く、周囲を木々に囲まれて居るとは言え、風はかなり強い。
 この状況が勝負にどう影響するか。やってみるまで予想は付かないが、しかし地形の条件は相手も一緒だ。
 俺は手足を軽く動かし、身体の状態を確認する。特に痛んでいるところも無く、筋肉の動きも活発だ。心肺機能も十全。昂揚感で少し心拍が早いが、体調は万全だ。
「よぅ不尽。早いじゃないか。ボクに負ける準備は万端かい」
 変声前の少年のような、少し低めの女の声が俺の名を呼ぶ。振り返ると、木々の間に一人の娘が立っていた。
 火のような明るい赤髪に、吊り目がちで勝気そうな大きな瞳。勝利を確信しているかのような勝気な笑みを浮かべている顔にはまだ幼さが残っており、背丈も下手をすれば子供と間違えてしまいそうなくらいだが、小さな体格に似合わず、その体つきの方はもう立派な大人の女性のものだ。
 身に纏った紅色の大陸の武闘服からはすらりと白い手足が伸びる。その身体は見惚れてしまうくらいに見事に鍛え上げられていた。まさに戦うための身体だった。
 しかし、彼女はただの小柄な格闘家、と言うわけでは無かった。
 頭の上には鼠のような真ん丸の耳が付いており、腰のあたりからも細い尻尾が生えている。彼女はその身体に、獣のような部位を持っているのだ。
 中でも一番の特徴は手足と尻尾の先にある赤いふさふさの毛皮だった。紅蓮の毛皮は彼女の手足の先で常にゆらゆらと揺らめきながら、炎のように立ち昇り、時に彼女の意思に合わせて周囲の物を燃え上がらせる。
 そう、彼女は人間では無いのだ。霧の大陸からやってきた妖で、種族は炎を纏った鼠の妖怪である『火鼠』。名前は『赤』と言った。
 そして妖怪であるとともに、俺がこれまでの人生で唯一勝ち越せていない武道の達人でもあった。
「赤。お前こそ俺に負けるのが怖くて遅くなったんだろう?」
「余裕過ぎて寝坊しただけさ」
「その油断が命取りだ。記念すべき今日の手合せは、俺が取らせてもらおう」
「記念? あぁ、そうか。今日はちょうど戦い始めて百回目だったっけ」
「戦績は常に五分と五分。だが、そろそろ決着を付けなくてはな」
 赤は茂みから、森の中の少し広がった、手合せするのにちょうどいい広場に進み出る。
「ふん。そんな事に気を取られているから足元を掬われるんだよ」
 赤は構えを取り、歯を見せて笑う。彼女の笑顔を見ていると、俺も自然に笑ってしまう。
「言ってろ。さぁ、始めるぞ」
 俺もまた構えを取る。どこへでも打ち込めるように、どこから打ち込まれてもいいように。
 やがて風が止み。
 鳥が飛び立つ音と共に、俺達は互いに向かって地を蹴った。


『楽しい』
 拳を突き出し、脚を繰り出す。その度にすんでのところで避けられて、反撃の突きが、蹴りが飛んでくる。
『楽しい!』
 それを今度はこちらが受け流し、身を躱し、また攻撃を繰り出す。
 百回も拳を交わしていれば、お互いの手の内も動きも予想が付いてくる。だから俺も赤も、相手の予想外を狙って手足を繰り出そうとする。昨日よりも更に素早く、力強く、相手の予想を上回ろうと鍛えた一撃を繰り出そうとする。
 しかしそれすらも意地で受け流し、けれども諦めずにまた相手の隙を狙う。
 幾重にも渡る攻防が、流れるように繰り広げられてゆく。一連のその動きは、ある意味磨き上げられた舞のようにも見える事だろう。
『いい。いいよ不尽』
 拳を交えているうちに分かるようになったのは相手の動きだけでは無かった。舞い踊るように戦ううちに、いつの間にか相手の気持ちさえも伝わり合うようになっていた。
『もっと。もっと!』
 赤は楽しんでいた。俺との戦いに、心の底からの喜びを感じていた。……そして、それは俺も同じだった。
 打ち合う事数合。尻尾の薙ぎ払いを避けるついでに、俺は大きく後方に距離を取り、息を整える。
 身体の各所が熱い。赤の毛皮に触れるたびに、その炎で炙られるためだ。
 だが、火傷になるかと言えばそうでも無かった。妖力を帯びた彼女の炎は、組手においては触れるものの精神を昂らせても、相手を焼き尽くすような無粋はしないらしいのだ。
 もっと激しく戦いたいと、すぐにでも跳び出したくなる自分を抑える。それは戦いを望む彼女の、その妖力に闘争心を煽られている結果だからだ。
 気性は激しくなってもいい。けれども頭は冷静に戦術を組み立てなくては。
 彼女は笑い続けている。多分、俺も笑っているのだろう。
『早く早く』
 彼女は手の平を上に向け、挑発するように指でこちらを誘って来る。
 身体がかぁっと熱くなる。いいだろう。乗ってやる!
 俺は顔についた汗を手早く拭い取り、拳を固めて一歩踏み込んだ。


 夢中になり過ぎ
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