白百合の奥にて

 湿った風が吹き、周囲の木の葉がざぁざぁと音を立てる。いつもなら安心感を覚えるはずの木々のざわめきが、しかし今は自分を追い立てる何者かの息遣いのように感じられた。
 俺は周囲に注意深く視線を走らせながら、額から垂れ落ちる汗を拭う。
 目に映る木々の配置も、その種類も、見たことないものばかりが自分の周りを取り囲んでいた。
 新しい狩場を見つけるために、普段よりも少しだけ森の奥へと踏み入っただけのはずだった。ほんのついさっきまで見慣れた森の景色が続いているのをこの目でちゃんととらえていた。帰り道も分かっていた。注意はちゃんと払っていたはずだった。
 それなのに、一体何が起こったというのか。俺は今、自分がどこを歩いているのか全く見当がついていなかった。
 変わった事があったとすれば、嗅いだ事の無い、花のような香りがしたという事くらいだが、しかしそんな事で全てが見覚えの無い場所に変わってしまうなどと言う事はありえないだろう。
 ぼんやりとしている間に奥深くまで踏み入っていたか、自然に出来た魔力の吹き溜まりのようなもので転移してしまったか、それとも記憶が欠落したか……。しかし理由が分かったところで、帰り道を思い出せる保証も無い。
 途方に暮れて天を仰げば、既に日は傾き、空は紅く染まり始めていた。
 腹の虫が空腹を訴える。飢えもそうだが、いつもとは雰囲気も匂いも違う森の奥で、独りで夜を迎えるというのは、ぞっとしない考えだった。
 俺はため息を吐いて、近くの巨木の根元に腰を下ろす。渇きを癒すべく皮の水筒を一口煽ると、ちょうどそれが最後の一口だった。


 都の煩雑な人間関係に嫌気が差し、この森で猟師を始めて何年になるだろうか。
 その何年も通い詰めた森で子供のように迷子になってしまうとは、情けないという感情を通り越して困惑さえしてしまう。
 しかし、考えてみればこの森の深部は危険なのだと誰かが言っていたような覚えもあった。
 あれは、獲物を里に売りに行った時の事だったか。肉屋か薬屋の主人に随分と感謝された事があった。里の人間は災いを恐れて森の奥には滅多に近づかないから、狩りをしてくれる俺のような人間には本当に助けられている、と。
 神聖な神の領域だったか、魔王に呪われた地だったか、はっきりとは覚えていないが、ともかく里の人間達はこの森の深部は災いを呼び寄せる地として信じているようだった。
 どうやら、それは迷信では無かったらしい。
 別に、俺とてただ冷やかしで入ったわけでは無かった。俺には信心は無いが、わざわざ禁忌とされる場所に自ら飛び込んでいく好奇心もまた持ち合わせてはいなかった。
 危険を承知で森の奥に向かったのは、単純に食うに困り始めていたからだ。
 最近、森の獲物の数が減っていた。理由は分からなかったが、森の中で動物の姿を見る事自体が稀になり始めていた。
 猟師は動物を狩ってなんぼの仕事だ。その動物たちが狩場から居なくなったら、食料も調達できなければ、里で必要なものを買うための金も得られなくなる。
 狩りを生業として身を立てている自分としては死活問題だった。
 それでもしばらくは様子を見ていた。動物たちは一時的に姿を消しただけで、すぐにまた戻って来るかもしれないと。
 だが、そのうち食料や金の備蓄も無くなり、俺は動かざるを得なくなってしまって、そして……。
 


 腹の虫が鳴り、はっと我に返る。
 短時間だが眠ってしまっていたらしい。森の奥地は誰も踏み入らないだけあり、植物が密集していて移動するだけでも一苦労だ。おまけにろくに食べていない。疲れも溜まるという物だろう。
 立ち上がろうとして、ふと俺は気が付く。
 甘い匂い。
 花のような、砂糖菓子のような、それでいて癖の無い爽やかな匂い。
 空腹が刺激されたのか、一瞬くらりと眩暈がして木に手を着く。
 森の奥地に入った時にもこんな匂いがしていた。場所の見覚えが無くなった時だ。
 その時は果樹か何かがあるのだろうとしか思わなかったが、しかし考えてみれば、普通の果樹がこんなに甘い匂いを発するわけがない。
 匂いの元は、一体何なのだろうか。
 果樹では無いだろうと想像はついてしまうが、しかしもし果樹だとすれば、とりあえずは飢えと渇きは凌げる。
 気が付いた時には、俺は既に歩き出していた。
 草をかき分け、木の根を乗り越え、匂いの元へと進んでゆくと、小さな物音が聞こえ始める。
 湿ったものを擦るような音や、何かの息遣いのような音。かすかな音が、木の葉の向こうで響いている。
 俺は自然と獲物を狙う時のように息を殺していた。
 気配を殺し、音を立てずに近づき、そして木の葉の間からそっと向こうを覗き見る。
 俺は思わず声を上げそうになり、慌てて口を抑えた。
 そこには、明らかに異常なものが鎮座し
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