狐に婿入り

 朝の通勤通学ラッシュ時。駅のホームは、どこかへと向かう誰かでいっぱいだ。
 ひっきりなしに電車がたどり着いては、学校の制服や仕事用のスーツに身を包んだ人間を吐き出し、そしてまた飲み込んで、どこかへと運び去ってゆく。
 電車と共に人が減ったその五分後には、ホームの上はまたたくさんの人間で埋め尽くされる。
 何度となく繰り返されるその光景を、独りベンチに座ってぼんやりと眺める男が居た。
 草臥れたスーツを身に纏い、少し疲れた顔をした男。彼もまた、昨日までは群衆の中の一人であった。
 けれど今は少し事情が違った。彼は、今はもう群衆に押し合いへし合いされながら鉄の箱に詰め込まれなくても良い身分なのだった。
 そんな彼がなぜ今日もまた駅のホームに居るのかと言えば、これはただ単純に身に染みついた習慣が抜けなかったというだけで、特に駅に用があるからでも何でも無かった。
「この街には、こんなに人間が居たんだな」
 小さな呟きは誰の耳に届く事も無く、川のような人の流れの中に埋もれてゆく。
 男は小さく息を吐く。流れに沿って生きてきたはずだった。それなのに、なぜ自分は人の流れから外れたところで一人ぼっちで居るのだろうか。
 目の前を大量の人間が行き過ぎるとともに、頭の中にもさまざまな考えが浮かんだ。しかし断片的な発想は浮かんでは沈んでを繰り返すばかりで、思考はちっともまとまらなかった。
 大量の人間の匂いが混じると不快な匂いが生じるように、頭の中にも澱が溜まってゆくようだった。
 男はため息を吐く。
 どこかに行きたい気がした。けれどどこに行けばいいのかも分からなかった。だから彼は、とりあえず思考を停止し、人の流れを眺め続ける事にした。


 幼い頃から、彼は凡庸で目立つところの無い人間だった。
 サラリーマンの父と専業主婦の母の元に生まれ、物心ついたころには弟も家族に加わっていた。
 小学校、中学校、高校共に成績は中の中。運動も人並みにはしたが、特段才能のような物も無かった。
 大学に進学はしたが、勉学もバイトもサークル等の友好関係も、流されるままの中途半端な関係性ばかりだった。
 やりたいことは特になかった。夢を持っている人間を見ると羨ましいと思うものの、しかし自分にそういう物があるのかと考えると、全く何も出てこないのが現実だった。
 そのうち周りに合わせるように就職活動を始め、それなりに苦労はしたものの、無事に一般企業へと就職が決まった。
 就職してからも彼の生き方は変わらなかった。
 それなりに仕事をし、それなりに成果は出した。けれど目立つほどの物は無く、将来会社で成し遂げたいような事も、特になかった。
 やがて三年が過ぎると、見知った同期の顔は半分に減っていた。
 世の中の景気が悪くなるにつれて同僚の数も減ってゆき、しかしそれに合わせて仕事の量は増え続けた。リストラをされなかったのが良かったのか悪かったのか分からなくなるときもあった。
 時間が経つごとに就業時間は伸びてゆき、やがて帰りは十時、十一時が当たり前となり、土日出勤もざらになった。
 このころになってようやく、彼は自分の人生に疑問を抱き始めた。自分は何のために生きているのか。こんな生活を六十過ぎまで続けるつもりなのか。何より、何が楽しくてこんな事を続けているのか。あらゆることが、分からなくなってきていた。
 仕事を辞めようかとも考えた。けれども今の仕事を辞めたとして次の仕事は見つかるのか。不安は重くのしかかり、彼はいつまでも腰を上げられなかった。
 そしてずるずると現状維持を続けた末が、突然の解雇通知だった。
 理由は会社の経営悪化と、彼自身の成績の問題だった。ハードワークが続き心身ともに疲労が積もったせいか、彼の仕事には失敗が目立ち始めていたのだった。
 彼は解雇通知を受け入れ、会社を去る事にした。不満は無いでも無かったが、会社や上司に噛み付ける程の体力も気力も無かった。


 もう会社になど行かなくていい。ごみごみした電車で、人に押し潰されながら仕事の締日やノルマに追われる事も無い。けれど、本当にこれで良かったのか。
 日が高く上りホームから人気がほとんど無くなっても、答えは出なかった。
 弟には夢がある。大学に進学して、夢に向かって頑張っている。
 母もそれを応援する為、パートを始めて学費の足しにしているらしい。
 父は少し稼ぎが悪くなったが、仕事に誇りを持って取り組んでいるようだ。
 では、自分は?
 昔馴染みの友人たちも、仕事をバリバリこなしていたり、新たな夢に向かってリスタートを切った者達も多い。
 かつての同僚たちも、また新たな目標を見つけたり、新たな職場で居場所を作って更なる活躍をしている。
 では、自分は?
 自分には何かあるだろうか。新しく始めたい事は。身
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