木の葉の陰から覗く空は暗かった。低く垂れこめた厚い灰色の雲は、まるで全てを押し潰そうとしているかのようだ。
応太はクヌギの木に背を預けたまま、雨の止まない空を見上げ続けていた。
ここ一ヶ月、ずっと雨ばかりだった。応太は生まれてからまだ数年間の記憶しか無かったが、そんな応太でも恐れを感じるほど、今年は雨が多かった。
木の陰には入っていたものの、応太の身体は既にずぶ濡れだった。
濡れた着物は容赦なく幼い子供の体温を奪う。応太は半ば無駄だと分かっていながらも着物の合わせをぎゅっと引き寄せて身を縮めた。
『すぐに迎えに来るから、少し待っていなさい』と言っていた父親がもう戻っては来ないであろうことは、何となくだが応太も理解していた。
今年は長雨のせいで作物の実りが悪い。それも、どうやら応太が生まれた村だけに限った話では無いらしいという事は、大人達の焦るさまから応太も察していた。
もう食料の貯蔵も少なくなっている。いずれ口減らしが必要だ。そんな噂も、聞いた事があった。
それでも応太はまだ父親を信じていた。『食べ物を探してくる』と言って出て行った父親が両腕一杯に木の実を抱えて、あるいは兎や狸を捕まえて、笑顔で『今日は腹いっぱい食べられるぞ』と戻ってくるのを待っていたかった。
だから自分はこの人喰い虎が棲む山に連れてこられたのだ。人が恐れて近づかないのだから、食べ物だってまだあるはずだから。決して虎に喰われるためではないはずだ。応太はそう信じ続けていた。
しかし待てども待てども温かい父親の声はおろか、足音一つ戻って来なかった。周りを包むのは雨粒が木の葉を叩く音だけだった。
応太は目を閉じ、湿った地べたの横になる。もう座っている事さえ億劫だった。
「坊主、一人なのか?」
ふいに女の声がして応太は目を開けた。目の前に居たのは、しかし人間では無く、一匹の虎だった。
応太はわずかに目を見開く。虎に食い殺されるかもしれないという恐怖よりも、本当に虎が居たこと、そしてその虎が話に聞いていたよりも人間の姿に近かった事の方が驚きだった。
「一人ならば、私と共に来るか?」
応太は小さく首を横に振る。
「父さんが、待ってろって」
「……父親は戻ってきそうか?」
虎の問いかけに、応太は答えられなかった。
戻ってくると答えたかった。喉が動かないのは、きっと冷え切ってしまっているからだ。応太は目頭に熱を感じながら、ぐっと息を詰まらせる。
「そうか。寂しいな」
そう言う虎の声の方が寂しそうに聞こえ、応太は視線を上げる。
雨の中傘も差さずに佇む虎の身体もまた、応太と同じようにずぶ濡れだった。その表情には怒りも喜びも悲しみも憐憫も浮かんではいなかったが、しかし虎の顔を流れ落ちていく雨雫は、流れ落ちてゆく涙のようにも見えた。
「お姉さんも、独りなの?」
虎は一瞬驚いたような顔をしたあと、すぐに小さく笑って見せた。
「私のところにはお前のような子供がいっぱいいるんだ。だから寂しくなんて無いんだよ。お前も来るか?」
応太は首を傾げた後、小さく頷いた。
「そうだよね。独りは、寂しいもんね。……分かった。僕、お姉さんについて行く事にする」
「それがいい。それと、私はお姉さんじゃない。私の名はレンファだ。お前は?」
「僕は、応太」
「応太か、いい名だ。歓迎するよ応太。立てるか?」
そう言って伸ばされた虎の手を、応太はしっかりと掴み取る。
虎の手は雨に濡れても温かかった。
「冷たいな。身体が冷え切っているじゃないか。ほら、私の身体にしがみつけ」
「あったかい」
虎は応太の手を取るなり、冷え切った応太の身体をひょいと抱き上げる。
そして応太が赤子のように身体にしがみつくのを確認すると、両腕で大切に応太の身体を抱えたまま、森の中の道なき道を歩き始めた。
……
…………
………………
狭い庵の板の間に、ぱちん、ぱちん。というそろばんを弾く音が響く。
ところどころに塗装の剥げかけた所の目立つ年季の入ったそろばんを扱っているのは、明らかに道具に不釣り合いなうら若き女性であった。
旅装束からわずかに覗く彼女の肌はどこも良く日に焼けている。珠算に集中しているのか表情は硬かったが、その顔つきにはまだ幼さが残っていた。そろばんよりも鎌を片手に田畑を駆けまわっている方が似合いそうな彼女は、しかし農家ではなく各地を旅して薬を売り歩く薬売りだった。
彼女の目の前に並んでいるのは、この山で採れた野草や、獣の肝など。どれも食料としては食べられたものでは無かったが、薬の材料としては優秀な品ばかりだった。旅先で山に住む知人の元を訪れた彼女は、今まさに薬の材料の仕入れの真っ最中なのだ。
旅の薬売りは彼女一人では無かった。彼女の隣に座り、じっと彼女の
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