彼が居なくなってしまった。
百合は洞窟の穴の上で、じっと中の様子をうかがっていた。
無人の洞窟に戻ろうとするも、脚がもつれて無様に床に落下した。
体中をぶつけるが、不思議と痛みは感じない。
これで良かったんだ。そう自分に言い聞かせる。
これが私のためでもあり、彼のためでもある。それなのに、どうしてこんなに胸が詰まるんだろう。
「お前、本当にそれでいいのか」
天井の穴から牡丹が顔を覗かせる。足を巧みに使って百合の近くに着地すると、腕を掴んで無理矢理立ち上がらせる。
「いつから居たんですか」
「昨日の夜からだ。二人で帰る時のお前の様子がおかしいと思ったら案の定だ。お前、あいつに惚れてたんじゃないのか」
「……違います」
「嘘だな」
百合は黙って目を反らした。
「人間は、私の姿を怖がります。あの人もいずれ私を恐れるようになる。いつか嫌われるくらいなら、最初から好きにならない方がいい」
「怖がられたって、俺達は妖怪だ。男を求めるのは本能。力尽くでも何でも、欲しいものは手に入れればいいだろうが」
牡丹はほとんど睨むような険のある目つきで百合の事を見下ろしている。
「力尽くじゃ手に入らないんです。私だって今まで何もしてこなかったわけじゃない。毒を打ったって、人間はみんな私を気味悪がって近づくなと言った。私には人間の心なんて手に入らなんです。だったら最初から望まない方がいいんです」
「あいつもそうだったのか」
百合は顔を上げる。
「それは……。でも、きっと弱った時の一時の気の迷いで」
「それにな、そんな事言ってるのにどうしてお前は人間を助けたんだ。足が折れてようが死にかけてようが、嫌われるのが嫌なら放っておけばいい。人間になんて関わらなければいいんだ。
大体、お前が人から愛されるのと、お前が人を愛するのは全く別の事だろうが。愛してくれないなら愛してくれるまで愛する。そうだろ」
「でも、私に愛されても、きっと迷惑なのでは……」
牡丹は鼻で笑うと、百合の体を地面に向かって突き飛ばした。
「そうか。よくわかった。お前があいつを捨てるって言うのなら、俺がもらってやるよ。お前の事も何もかも忘れて、俺と交尾することしか考えられなくなるくらいに、毎朝毎晩犯して、しゃぶって、搾りつくしてやる」
「やめて。駄目です、そんな」
「嫌なら力付くで取り返すんだな」
腕にしがみつく百合を、牡丹は力付くで振り払おうとする。
だがそこは妖怪同士、百合もそう簡単には牡丹の腕を離さない。しびれを切らした牡丹は百合のみぞおちに空いている拳を叩きこんだ。
牡丹の腕から百合の手が離れ、百合はくたりと力なくその場に倒れこむ。
牡丹は舌打ちすると、歩き去ろうとして脚に違和感を覚えた。
違和感の原因は獣毛の隙間刺さった百合の尻尾の顎肢だった。牡丹は乱暴にそれを抜き取ると、洞窟を後にし男の匂いを追いかけ始めた。
後も先もわからない森の道を、ただ何となく歩いていた。
妹は、さきは俺の事を待っているだろうか。どこで待っているというのだろうか。
考えようとしても、浮かんでくるのはここ数日一緒に居た百合の事だけだった。
最初は影があったが、次第に花のような笑顔を見せるようになってくれたこと。一緒に食事をしたこと。肌を重ねたこと。
焚火に照らされる物憂げな彼女の横顔。水辺の清らかな裸体。
そして別れ際の、感情を殺した無表情。
胸が切り刻まれたように痛んだ。
妹の事も忘れていた情の無い男だ。やはり彼女にはふさわしくなかったのだ。
『そんなに自分の事責めないでよ。私は兄さんがいるだけで幸せだよ』
俺にとって都合のいい妹の言葉が蘇る。あいつはいつだって俺の事を気遣ってくれていた。
『兄さんだっていつも私の事を先に考えてくれているじゃない』
そんなことは無いんだ。結局俺は何もできなかったし、逃げだせたらと考えたことだってあった。さきを逃がそうとしたのだって、俺自身が逃げたかったから。
『ねぇ兄さん。どうして私の嫁入りを止めるの。私が田沼に嫁げば兄さんにだってお金が入るんだよ。こんな生活終わらせて、お金持ちの仲間入り出来るんだよ?』
逃げ出す直前、さきは言っていたな。心底分からないっていう顔をして。
そして俺はこう答えたんだ。
『馬鹿言え。お前を犠牲に俺が得するくらいなら、死んだ方がましだ』
あの時の言葉は本当だった。俺は自分の身だってかわいかったけど、さきの幸せを心から願っていたんだ。
それから、さきは急に真面目な顔をして続けた。
『ねぇ兄さん。二度と会えなくなるかもしれないから、一つ約束して。これからは自分の事をもっと大事にすること。幸せになるって、約束して。じゃないと私、あの人と一緒でも不安になって幸せになれないよ』
ああそうだ。花
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