第二章:教団の奴隷(下)

 気が付くと、いつもの納屋の中の乾草の上だった。何だか全身がだるくて、鼻が詰まっていて息苦しかった。
 僕はぼんやりと納屋の中を見回して、寝起きにしては明るすぎる光景にはっと息を飲む。
 ……寝坊した。
 焦って身を起こそうとした途端に全身に痛みが走り、喉の奥から勝手にくぐもった声が漏れた。
 しかしおかげで、意識と記憶がはっきりと蘇ってきた。
 そうだった。眠っていたんじゃない。水瓶を壊したのだと言いがかりをつけられて、蹴り付けられ、踏み付けられて、それでいつの間にか意識を失っていたんだ。
 どうやら今は昼のようだが、あれからどれくらい気を失っていたのだろうか。わずかな時間か、それとも丸一日という可能性もある。
 とにかく、起きて確認しなければならない。仕事をしなければ周りにも迷惑が掛かってしまうのだから。
 ゆっくり体を起こすと全身がぎしぎしと悲鳴を上げた。
 体中痛まない所が無いくらいの惨状だった。だが、幸いどこの骨も筋も壊れてはいないようだった。
 踏みつけられていた右手には感覚は無かったが、骨が折れたりしているわけでは無さそうだった。時間は掛かるかもしれないが、そのうち良くなってくれるだろう。
 僕は鼻を擦って、乾いた血の塊を振り払う。
 夢を見た気がする。女奴隷のザフラさんに謝られながら介抱される夢だ。
 ……違う。夢じゃない。意識が朦朧としてはいたが、あれは現実だ。
 主人が去って行ったあと、ザフラさんが僕を背負ってここまで運び入れてくれたんだった。
 それからザフラさんは、泣きながら本当は主人の子どもが遊んでいるうちに水瓶を痛めてしまったんだと話してくれたんだ。意識を失いかけてろくに返事も出来ない僕に、何度も何度も頭を下げて謝ってくれて。
 歯噛みすると、顎さえも傷んだ。何が悲しいか悔しいか分からないが、涙が出てきた。
 ……違う。何かがでは無く、もう全てが嫌なのだ。
 あの子ども達はきっと何不自由なく暮らして子どもも作っていくんだろう。
 それなのに自分は、自分が悪いわけでも無いのに男としての機能さえ奪われてしまうんだ。
「アズハル」
 ずっとケプリ達の事を考えて遠慮してきた。でも本当は、一度でいいからちゃんと抱きしめたかった。男女の関係として、もっと親密になりたかった。夫婦として、ずっと一緒に……。
 でも明日が来てしまったらそんなささやかな夢すら見られなくなってしまう。
 もう男としてアズハルを抱く事は叶わなくなる。それどころか去勢術に失敗して命を失えば、アズハルと言葉を交わしたり、顔を見る事さえも出来なくなってしまう。
 いやだ……。いやだよそんなの……。
「……さん。アミルさん」
 小さな声が聞こえた。ちゃんと僕の名前を呼ぶ声だった。見回してみると、納屋の扉からザフラさんがこちらを覗いていた。
 足を引きずるように近づいていくと、彼女は周囲を伺ってから納屋に入って僕に耳打ちしてきた。
「ご主人たちはお昼ご飯を食べてらっしゃいます。今なら気付かれずにここを抜け出せます」
「でも、そんな事を、したら」
 痛みで舌が回らなかったが、それでも彼女は僕の意を汲んでくれる。
「ご主人には、あなたが高熱を出して二三日動けないだろうと伝えておきました。近づいたら病気が移るかもしれないとも。
 ……それでも明日には去勢するための施設に連れていくと仰られていましたが、少なくとも明日の昼まではここには誰も入って来ないでしょう」
「あの、言ってる、意味が」
「……こんな事で償いになるとは思いませんが、あなたの分の仕事は私が代わっておきます。想い人に会って来て下さい」
 僕は思わず、まじまじと彼女の顔を見つめてしまった。
 彼女は気まずそうに目を伏せたが、唇を引き結んで顔を上げ、僕の腫れ上がった頬に触れてきた。
 顔全体に鈍い痛みが走るようだったが、彼女の手は人間らしく柔らかく温かかった。
「逃げなさい。と言いたいところだけれど、明日の昼にあなたが居なかったら、ご主人が何をするかは分かりません」
「分かって、居ます。この街には、父も、母も、妹も、居ますから」
 ファラオを信仰しているという理由でこの街が教団に攻め落とされた時、元からここに住んでいた僕達は邪悪な異教徒として奴隷に身を落とされ、家族はバラバラにされた。
 理由は結束を避けるためと、こうして一人で逃げ出す者を出さないためだ。誰か一人でも逃げ出せば、その家族が責めら、罰せられる。それが分かっていて逃げ出せる者などそうは居ないのだ。
 ザフラさんにだって想い人や、もしかしたら幼い子どもだって居るかもしれない。
 僕がぎこちなく笑うと、彼女はとうとう涙を零して僕の胸に顔を埋めてきた。
「ごめん。ごめんなさい。私が、私がちゃんとあの子達に注意を払ってさえいれば……」
「いい
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