目を開けると、既に見慣れた柱と梁が闇の中から浮かび上がり始めていた。
寝床に潜り込んだと思ったら、もう朝になってしまったらしい。納屋の中はまだ薄暗かったが、それでも夜の真の闇に比べれば何がどこにあるのかくらいの区別はついた。
家畜の鳥が騒ぎ始めていた。僕は身を起こし、軋む身体を少しずつほぐしていく。
寝床代わりの黴臭い乾草の中から這い出すと、日が昇る前の冷気が身体に凍みた。吐く息が白くなる程では無いものの、隙間の目立つ納屋の中で襤褸をまとっているだけの身には堪えがたいものがあった。身体に着いた草を落とす手も震えてしまう。
身を縮めるように外に出ると、東の空が薄い青紫色に滲み始めていた。
日が昇る直前の藍色の空の下に、波打つような黒々とした稜線がはっきりと見えた。どちらを向いても、街の外に広がっているのは暗い砂の海だけだった。
大きな檻だ。と僕はいつも思う。
遮るものが何も無いが、どこからでも逃げられるかと言えばそうでは無い。
遮るものが無いという事は、逆に言えばどこからでも見つかってしまうという事だ。仮に運良く逃げおおせたとしても、この広大な砂漠を隣の集落まで生きたまま渡り切る事は不可能に近い。
僕は赤らみだした地平線に目を細め、頭を振って大きな水瓶を抱える。
水汲みは僕の朝一番の仕事。これから一日が始まるかと思うと、水瓶が少し重たくなった気がした。
街の外れのオアシスにたどり着くころには太陽も稜線から姿を現していて、早朝の薄暗闇を赤く焼き上げはじめていた。
僕は泉の淵に膝をつき、そっと水瓶を横たえて水を流し込んでいく。
全ての仕事は水が無ければ始まらない。水汲みは何より急がなければならない仕事だったが、今はまだ日が昇ったばかりでもあり、時間には十分に余裕があった。
日が出て少し暖かくなってきた事もあり、ついついあくびが漏れてしまう。
僕は首を振って眠気を追い払う。こんな事ではいけないと水瓶に注意を戻していると……。
突然予期せぬ暗闇が僕の視界を覆い隠し、驚いた僕の手の中から水瓶の縁が滑り落ちた。
「だーれだ」
そんな声が暗闇の後に遅れてやってきた。
目元を覆うツルツルとした暖かい感触。人の手程には柔らかな指では無いものの、ぷにっとした独特の弾力を持っているそれ。
それから背中に当たる二つの柔らかい感触。生きている事を実感させてくる幸せな温かさ。
こんな風に抱きつきながら目隠ししてくるような子は一人しか思い浮かばなかった。
「アズハルでしょ」
「えへへ。あったりー」
少し鼻に掛かった女の子の悪戯っぽい声と共に、ぱっと視界が開ける。僕はとっさに水瓶の安否を確かめてしまう。
水瓶は横になって水底に転がってしまってはいるものの、水汲みするのに支障は無さそうだった。
ふぅ、と安堵の息を吐いた僕の胸に、彼女の両腕が回される。鈍く朝日を照り返す、昆虫のような節を持った金色の腕。異形の腕は見た目こそ硬そうなものの、実際に触ってみるとぷにぷにとした癖になりそうな弾力を持っている。
強く胸を締め付けられても心地よいばかりで、全然痛みなんて感じない。
背中で遠慮なく柔らかな感触が潰れ、頬ずりするような動きが背中に伝わってくる。着ている襤褸なんて本当に薄いから、直接背中にされているようなものだ。
僕は顔が熱くなるのを自覚しつつ、声だけは冷静を心がける。
「お、おはよう。二日ぶり、かな」
「うん。お姉ちゃん達がうるさくって、抜け出すのに手間取っちゃった」
昨日と一昨日は君に会えなくて生きている気がしなかった。死ぬほど寂しくて仕方が無かった。とは、思ってはいても流石に口には出せなかった。
両腕がほどけ、背中からもアズハルの温もりが離れていく。
少し残念に思いながら、僕は振り返ってアズハルと対面した。
「ごめん。久しぶりにアミルの匂いを嗅いだら、我慢できなくなっちゃって」
照れ笑いをしながら僕を見上げる魔物の女の子。アズハル。抱きついてきた腕からも分かる通り、彼女は人間では無くケプリと呼ばれる昆虫型の魔物娘なのだった。
年の頃十代半ばくらいの人間の女の子の身体に、黄金色をした昆虫の四肢と翅。三つ編みにして頭の後ろ側で纏められた長い髪は、夜明けの薄紫色をしている。
健康的で艶やかな褐色の肌を覆っているのは金飾りの付いた薄い胸当てと腰巻くらいのもので、ふっくらと丸みを帯びた身体の線が惜しげも無く晒されている。
思わず見とれてしまっている事に気が付いて、慌てて視線を上げると、大きなルビーのような双眸と目が合ってしまった。
「ごごごめん。あの、その、綺麗だなって、思って」
「綺麗だなんて……。ふふ、お世辞でも嬉しい。二日ぶりだもんね。でも、アミルにだったらいくら見せたって構わないんだよ? 良
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