彼女が来る時間が近づいたので、俺は縁側に今年出来たばかりの酒を用意した。
庭先に広がる藪にはまだ雪が残っていたが、風も無く日差しも強いので、日の当たる縁側や座敷に居る分には見た目程の寒さは感じなかった。
肴に用意した炒った豆をつまみながら、そう言えば今日は節分だったのだと思い出す。まぁ、今日の趣向にはいいかもしれない。
鳥のさえずりや、風に揺れる木の葉の音が聞こえてくる。この山奥に聞こえてくる音と言えばそれくらいの物だった。
何代か前のご先祖様の時代から、うちは酒を造り続けてきた。
そして水にこだわった爺様だか曾爺様が本家を出て、この山の中に酒蔵を作ったのだという。おかげで酒の素材には恵まれていたが、本来のお客であるはずの人間にはほとんど縁が無かった。それどころか、人間以外の、鬼や大百足のような妖怪の常連客の方が多いくらいだ。
「よ、待たせたな経若」
縁側の正面の茂みが揺れ、雪を振り払いながら一人のアカオニが姿を現した。
つややかな肌は紅葉よりも鮮やかな紅色。丸みを帯びた肌には虎柄の薄い腰巻と胸当てしかつけられておらず、豊かな乳房の膨らみやなまめかしい腰の曲線が目にまぶしい。
少し癖のある黒髪、そこから伸びる逞しい一対の角。強い意志を感じさせる瞳。野性味あふれる笑みを浮かべるその姿は野生動物のように凛々しくも美しい。
こぼれそうな乳房を目の当たりにして目を逸らす俺を一切気にせず、そいつは俺の隣に腰を下ろした。
「まったく、何度も裸の胸も見ているってのに、お前は相変わらずだな」
「馬鹿野郎。呉葉がいつも薄着過ぎるんだよ。……寒くないのか」
「ふふ、心配してくれてるのか。大丈夫だよ。それにこの方がすぐに脱げて楽じゃないか。男を抱くのに煩わしい事は少ない方がいい」
呉葉の言葉に、俺は胸が重くなるのを自覚する。
「安心しろよ。今日も免疫を付けさせてやるから」
呉葉は気分がよさそうに笑ったが、俺は笑える気分では無かった。
「じゃあさっそく新しい酒を頂こうかな」
呉葉は俺の気も知らず、一升瓶を片手で掴んで椀に注ぎはじめる。
アカオニの呉葉。爺さんがまだ生きて酒を造っていた頃から、定期的に酒をせびりにここに来る、気のいい酒好きの妖怪。俺の恋人。
俺よりずっと年上のはずなのに、年を経るごとに女らしく美しくなっている気がするのは俺の見る目の方が変わってきているからなのだろうか。
幼い頃は姉のように慕っていたこいつの事を異性として強く意識し始めたのはいつの頃からだろう。
節分の鬼退治遊びに付き合ってくれた子どもの頃からだろうか、死んだ爺さんの跡を継いで酒造りを始めた頃からだろうか、作った酒を褒められた頃からだろうか、それとも、お互い酔ってまぐわった頃からだろうか。
呉葉は椀の中身を一気に呷り、くはぁ、と息を吐いた。
作り手としては嬉しい程の飲みっぷりだ。飲んだ後の満足げな表情を見ていると、胸の中に言葉に出来ない喜びが満ちてくる。
「美味いか」
「あぁ、だがまだまだだな。お前の爺様の酒はもっと美味かった」
どんなに美味そうに酒を飲んでも、こいつはいつもこんな調子だった。まぁそれはいい。俺だってまだ自分が未熟だという事は理解している。
「……しばらく来なかったが、どうしてた?」
「うん? あぁ、昔馴染みの大百足が結婚したんでそれを祝ったり、あとはウシオニの男狩りに付き合ったり。まぁ、いつも通りだな」
いつも通り、か。
確かに妖怪である呉葉にとって、それは当たり前の事なのかもしれない。
妖怪が生きていくためには、人間の男の精が必要だと言われている。呉葉だって、精無しに生きていけるわけでは無いのだろう。
それは分かっている。だが、分かっているからと言って納得できるわけでは無い。
俺の知らない所で誰とも分からない男が呉葉を抱いているのかと思うと、心臓が膿んでしまったかのような強烈な不快感で気分が悪くなる。
呉葉への恋慕の情が強まれば強まる程に、どす黒い嫉妬の感情も膨らんでゆき、今ではもう破裂寸前にまでなっていた。
「ほら経若、お前も飲めよ」
注がれて勧められた椀の中身を一気に呷る、しかし不快な感情は一向に飲み込めず、酒が焼いてくれるのも喉だけだった。
「今日はいい飲みっぷりだな。私も嬉しいよ」
呉葉は豆をつまみながら、それを流し込むように一気に酒を飲み干した。
一升瓶も豆が入っていた枡も、すぐに空になった。うわばみのアカオニにとっては、一升瓶を空にする程度では酒を飲んだうちになど入らないのだ。
だが人間の、しかも下戸の俺にとっては椀一杯の日本酒は酔っぱらうには十分すぎた。
頭はふわふわとし、手足も綿雲がまとわりついているようなあんばいだ。それでも胸の中のどろどろとした感情を忘れてしまえるほど
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