溶ける山脈

 青白い顔が俺を見下ろしていた。
 長いまつ毛、切れ長の目、すっきりとした鼻筋。一流の職人が魂を込めて削り出した女神像のように整った顔にはしかし、およそ表情と呼べるような物は浮かんでいない。
 唇は真一文字に結ばれ、トパーズのように煌めく瞳は、ただ目の前に映る物を反射しているだけだった。
「なぜ、またここに来た」
 周囲が何も見えない程の猛吹雪の中で、彼女の姿と声だけは不思議とはっきり感じ取れる。
 ともすれば、真っ白い二人だけの世界に居るかのように思えてしまう程だ。
「見てみたい、からだ」
 風が荒れ狂う中、俺の声など聞こえているはずが無いのに、彼女は俺の心を読んだかのように首を傾げる。
「頂上からの、景色を。君が見ている世界を」
「見て、どうするのだ」
「分からない。ただ見てみたいんだよ」
「お前は馬鹿なのか。今回だって死ぬかもしれなかったのだぞ」
 しなやかな指が頬に触れる。触れた場所から冷気が広がり、感覚さえも無くなっていくが、怖くは無かった。
 俺の命を奪う気は無いという事は身を持って知っている。その気があるならとっくにやっているだろうし、何度も遭難するたびにこうして助けてくれることは無いだろう。
「かもしれない。でも、見たかったんだ」
「お前は、愚かな人間共の中でも特に愚かな人間らしい」
 指だけでなく、彼女の手のひらが頬を包みこんでくる。
 もったいないな。もっと万全の状態なら、彼女の手のひらの感覚を味わえたのに。腕を上げようにも、もう力が入らない。でも。
「初めて、触ってくれたな」
 俺がそう言うと、彼女は微かにまつ毛を揺らした。
 本当に、綺麗な顔だ。青く透き通る長い髪もとてもよく似合っている。ずっと見ていたいのに。ああ、もう視界の端が白んで来てしまった。
 今回は、もうこれでお別れか……。

 ***

 次に目が覚めた時、俺はベッドの上に横になっていた。
 見慣れた丸太作りの部屋だった。身体を包み込む柔らかな暖気と、薪の燃える匂いに胸がほっとする。この部屋のベッドに寝ているという事は、俺はまた登頂に失敗したという事か。
 恐る恐る自分の身体を確かめる。右腕、左腕、右脚、左脚。腹部も背中にも特に異常は無い。身を起こせない事も覚悟していたが、起き上がるのも問題無かった。体中に包帯が巻かれているかと思いきや、今回はそんな事も無かったようだ。
 ベッドの上に上半身を起こし、俺は一息つく。
 また頂上まで届かなかった。
 今回は何度目の挑戦だっただろうか。回数すら忘れてしまう程挑み続けているものの、頂上はまだ見えていない。危険と判断して引き返した事もあるし、撤退が間に合わずに山の中で遭難してしまった事もあった。
 そしてこの身が危うくなる度、この山の守護精霊であるあいつ、グラキエスに助けられている。
「あいつ、彫像じゃ無かったんだな」
 ぽつりとつぶやき、声が出る事に安堵する。
 にしても本当に、今回は驚いた。
 毎度毎度無表情で俺を引きずって運んでいくだけだったあの冷血な氷の精霊が、俺に言葉を掛けて、触れて、あんな目をするなんて。
「おや、もう気が付いていましたか」
 部屋の扉がノックも無しに開いて、眼鏡を掛けた若い男が入ってくる。このペンションのオーナーだ。俺を雇ってくれている雇い主でもある。
 オーナーには山に登ったり下りたりするたびにこんな風に世話になりっぱなしだ。正直頭が上がらない。
「まだ寝ているとばかり思って、確認を忘れてしまいました」
「いえ。すみませんオーナー、いつも迷惑ばかりかけていて」
「迷惑なんて思っていませんよ。無事で良かった」
 オーナーはベッドの脇の椅子に座り、柔らかく微笑んだ。
「その顔。またすぐに挑戦したいみたいですね」
 そんな顔をしていただろうか。確かに今回の失敗はかなり悔しかったが、それが顔に出てしまったのかな。
 今回は登頂するつもりだったのだ。準備も万端、体調もかつてない程良かった。自信もあった。だのに、吹雪に気を取られる、足元への注意を怠ったばかりに崖から落ちてしまって……。
 運良く崖の高さもさほど無く、落ちたところにも雪が厚く積もっていたおかげで事なきを得られた。本来であれば体が無事だっただけでも喜ぶべき事なのだろうが、俺の中では些細なミスを犯してしまった自分への情けなさと悔しさの方がよほど強かった。
 俺は両手を握りしめる。体力は、まだ十分残っている。でも。
「そんなに仕事に穴をあけるわけにも……」
「この時期に来るお客さんなんて、本当に常連さんくらいですよ。その常連さんも、君があのグラキエスをここまで連れてきてくれたからこそ出来た常連さんなんですけどね」
 俺は何も言えなかった。俺は何もしていない。しているとすれば、あのグラキエスだ。
 気を失っている俺には記憶
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