雨が降っていた。
白無垢姿の人影が、降り注ぐ雨粒を物ともせずに山中のけもの道を駆けていた。
目深にかぶっている角隠しのせいでその表情は分からなかったが、必死に何かから逃げている様子であった。
滴はかなり大きな音を立てて木の葉を叩いていたが、花嫁の耳には自らの荒い呼吸音しか聞こえない。
雨が降っていることに気が付いているかも怪しい。それだけ無我夢中で花嫁は傾斜のきつい山道を走っていた。
ぬかるみに足を取られ、転びそうになる。
とっさに両手で受け身を取るも、泥水が飛び散り、白い衣装が黒く汚れた。
そこでようやく花嫁は顔を上げる。
容赦なく叩きつけられる雨粒を顔に浴び、初めて雨が降っていることに気が付いた。
花嫁は後ろを振り返る。
坂の下方、まだはるかに距離はあるが、藪の切れ目に村人たちの着物の色が見え隠れしていた。
自分を追ってきている。完全に撒くのはやはり難しいようだ。
花嫁は坂の上を見やる。
木々の間からかすかに空が見えた。厚い雨雲で暗い空が。
顔中に雨を浴びながら、花嫁はぬかるみを踏みしめて立ち上がる。
ここでつかまるわけにはいかなかった。少しでも村から離れなければならない。一里、一尺、とにかく一歩でも遠くに。
坂を上り切り、一気に視界が開けた。
これで上りは終わりだ。その一瞬の油断が命取りだった。
花嫁は再び足を滑らせる。
あ、と思った時にはすべてが遅かった。上り坂の先は、急激な下り坂になっていた。
花嫁の体は傾斜を一気に転がり落ちてゆく。平衡感覚は一気にかき乱され、冷静に考えることなど出来なかった。
何かに掴まろうともがくが、腕は空を切り、足に力は入らなかった。体が転がるに任せるしかなかった。
いつの間にか白無垢は無くなっていた。どこかに引っかかって脱げてしまったようだ。
そして花嫁の体からすべての支えが失われる。
「あ」
視界には、半分崖に切り取られた暗い曇天だけが広がっていた。
死んだと思った。最後にあいつの笑顔が見たかったが、やはりそれも自分には過ぎた願いだったのかもしれない。
ぱちん。と何かが始めるような音で目が覚め、そんなことを考えていた自分に気が付いた。
目を開ける。薄暗い、石の天井が見えた。
体を起こそうとしたものの、出たのは小さなうめき声だけだった。腕、わき腹、腰、頭、脚。全身ありとあらゆるところに痛みが走り、うまく体が動かせなかった。
それでようやく、自分が崖から転げ落ちたのだと自覚した。
情けない声を上げながらも何とか上半身を起こし、自分の体を確認する。大きな傷ができたのでは、と考えると恐ろしかったが、自分の体のことがわからないのはもっと怖かった。
白無垢も角隠しも、斜面を転げるうちにどこかに引っ掛けて無くしてしまったらしい。身に着けているのはいつもの襤褸だけであった。
だが、その襤褸の下には、白い布が巻きつけられていた。にわかには信じられなかったが、どうやら体中にあるらしい全ての傷に手当がなされているようだ。
薬草を貼り付け、包帯のようなもので巻くという簡単なものであったが、体中、痛むところには全て丁寧に処置がなされていた。
誰かが助けてくれたようだ。
見たところここはどこかの洞窟のようだ。焚火が焚かれていて、ある程度の広さもある。床には枯草が敷き詰められていて寝ていて体を痛めることもなさそうだ。
だが、薄暗く、少しじめっとしていて、人が好んで住むような場所とも思えなかった。
恐らくここの住人が自分を助けてくれたのであろうが、しかしそれは一体どんな人物なのだろう。人家ならともかく、このような住処では想像することも難しい。
見渡す限りごつごつした石の壁だったが、闇が広がる穴が二つほどあった。一つは天井に、そしてもう一つは壁に。
通風孔と出入口、といったところなのだろうか。暗闇の先に何が待っているかはわからないが、進んで行ってみようか。
立ち上がろうと足に力を入れる。しかし焼けつくような激痛が足首に走り、体勢の崩れた体は無様に地面に激突する。あまりの痛みに声も出せず、冷たい脂汗が滲んだ。
「だめです。まだ立ってはいけません」
女の声がした。
小さな声だった。だが、弱弱しい感じではなく、柔らかく、聞くものの心を落ち着かせる声だった。
声は洞窟内に反響し、声の主が遠くにいるのか、近くにいるのかはわからなかった。すぐ近くから声がしたように思えたが、しかし周りには誰もいない。
「幸い骨は折れていませんでしたが、酷く筋を痛められているようでした。傷が治るまではここで休んでいてください」
「しかし俺は」
自分の声が、低く木霊する。
休んでいるわけにはいかないのだ。という言葉は出かかっただけであった。
帰る場所も家族も全
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