彼女の部屋は、いつもシンナーの匂いがしている。
八月も中旬に差し掛かり、日中に35度を超える日々ももう二週間を超えていた。
ここまで暑い日が続けば少しは慣れてもいいものだけど、人間の身体と言うのは良くできているらしく、僕はこの暑さに生命の危機を覚える事はあっても慣れる事は全く無かった。
太陽は喜び勇んでさんさんと照りつけている。きっと太陽は地球の事が愛しくてたまらないに違いない。想いを伝えようと熱視線を送っているのだ。
直接近づく事の無い、控えめなアピール。
それに照れた地球は温度を上げて……。まぁ近づかれたら人類は滅亡するんだけど。
頭から汗が流れ落ちて顔を伝う感覚に、僕は我に返る。こう暑いと、どうしても意味の分からない事を考えてしまう。
なぜ彼女のアパートは坂の上にあるのだろう。
坂道を登りながら、僕はしばし考えたのち、答えが出ない事に気が付いて頭を振った。
陽炎が立つアスファルトの坂道を恨めしく見上げながら、僕は汗ばむ手でバッグを背負い直す。
着ているTシャツとジーンズが汗で体に張り付いて、気持ちが悪い。ひっきりなしに頭から汗が流れ落ちてくる。もう拭くのも諦めてしまった。
坂道は山際に沿ってゆるいカーブを描いている。山側はガードレールのすぐ向こうが鬱蒼とした森になっていて、生暖かい湿った風が時折吹いてくる。
反対側を見下ろせば、僕等の住む学生街が見えてくる。
地方都市の大学に良くある、山に囲まれた学生街。僕と、僕の彼女の住む街。
見慣れたアパートが見えてきて、僕はほっと一息つく。
久しぶりに彼女に会える。そう思うと、自然と暑さなんてどうでもよくなってしまう。目が印象的で可愛い彼女の顔を思い浮かべながら、僕は坂道を一気に駆け上がった。
ドアホンを鳴らしても彼女は出てこない。
ノブを回すが、鍵が掛かっている。
僕は合い鍵を使って鍵を開け、勝手に中に入った。とたん、いつもの臭いが鼻を突く。
しかも、期待していた涼しさは無い。まぁ、覚悟はしていたんだけど。
勝手知ったる他人の家。学生用の六畳間。間取りは僕の部屋とも大して変わらない。
廊下の片側にキッチンが付いていて、その反対側にはトイレと浴室へつながる扉が一つずつ。
僕は居間の扉を開けた。
窓は空いていて、カーテンが気持ちよさそうに風に揺れていた。
簡素なベッドに、大きな棚が二つ、本棚とテーブルが一つずつ。あとは今も稼働中の扇風機が一台。それがこの部屋の家具の全て。
彼女はテーブルに向かっていて、ここからはその後ろ姿しか見えない。
トルコ石で作られたような、玉の汗の浮かぶ滑らかな肌。一つに束ねて背中に流している、艶のある紫水晶のような髪。荒く削った翡翠を思わせる一本の角。
……流石にこんな表現では気取り過ぎかな。
身に着けているのはあずき色のタンクトップと、同じ色のパンツだけ。背中とか汗で色が変わっていて……。なんというか、自宅だからって油断し過ぎな格好だと思う。
まぁ僕としてはそこがたまらなく良くて、色気を感じるんだけど。
「まどか?」
彼女は自分の手元に夢中で、僕の存在には気付いても居ないようだ。
机の上にはいつものようにプラモデルの箱やランナー、ニッパーや塗料等が乱雑に散らばっていた。
僕はため息を吐いて、彼女のその大きな目の前に手をかざした。
その手が一瞬止まり、僕を見上げる。
「あ、いらっしゃい」
どんな宝石も敵わない澄んだ紫色の瞳に、僕の姿だけが映し出される。だが残念なことにそれは一瞬だけで、彼女はすぐに意識を手元に戻してしまった。
二週間ぶりに再会したっていうのに、ちょっと味気無い。
ため息を吐きそうになるけど、よく見ればその瞳は少し揺れていて、ちらちら僕の方を伺っていた。
「久しぶり、だね。実家、どうだった?」
「うん、まぁまぁかな。でも、まどかの顔が見れなくて寂しかったよ」
もっと言い方もあるだろうに、僕は彼女の前だとどうしても言葉を選べなくなってしまう。こんな事言われたって困るだろうなぁ。
「私も、寂しかった、よ?」
彼女は手元と僕を交互に見ながら、つぶやく様に言った。
僕は笑ってそれに応えて、彼女の斜め隣に座った。
机の一部を開けてもらい、僕はもってきたノートパソコンを立ち上げる。
まどかはランナーからパーツを取り外す作業にいそしんでいる。
ぱちん、ぱちんという音をBGMに、僕はワープロソフトで作品の続きを書き始める。
ぱちん、ぱちん、かたかたかた。
ぱちん、ぱちん、かたかた。
ぱちん、ぱちん、……。
ぱちん。
時計を見る。書き始めて十分、僕の頭はもう真っ白になっていた。何も浮かんで来ない。
まどかは相変わらずランナーに立ち向かっている。前に聞いた
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