蚊取り線香とベルゼブブ

 朝起きたら仕事に出かけて、汗水たらして働いて、仕事が終われば帰って発泡酒飲みながら飯食って寝る。
 満ち足りているわけでも無いが、死にたいと思う程辛くも無い。俺の日常は、そんな平坦な生活の繰り返しだ。
 残念なのは昼間は汗と埃にまみれて、いつだって汚れていて汗臭い事か。おかげで女っ気も一切ない。
 彼女も出来たことは無い。働き出してからはさらに汗をかくようになったからか、女からは近づいただけで顔をしかめられるようになった。
 たまに付き合いで行く飲み屋のおねーちゃんからも、お客さん汗臭ーいと言われて避けられる始末。
 唯一の幸せと言えば、こうして一人でちびちび飲んでいる事くらいだ。
 今日も一日、特に何も起こらなかった。
 いいことも無かったが、事故も病気も無く、悪い事も起こらなかった。平和に寝る前の一杯を飲めているだけでも良しとしよう。
 暇つぶしで眺めていたテレビに蚊取り線香のCMが流れた。何でも渦巻の蚊取り線香は長持ちで、一晩持つのだと俳優が言う。
 それに合わせて美人の女優が「試してみますか?」なんて言っていた。
 俺は発泡酒を飲もうとして、……くそ、もう無くなった。
 男と女が一晩起きていて何を試すっていうんだ? ナニを試すに決まっているか。イケメンはいいですねぇ。引くぐらい言い寄られて。
 俺はため息一つ吐くと、寝る準備を始める。


 歯を磨き、布団を敷き、風呂は……どうせ寝汗をかくから明日の朝でいいだろう。
 今晩も暑いんだろうなぁ。今年の夏も最高気温を更新しているらしい。
 寝るときくらい涼しく過ごしたいが、エアコンはただの置物になってしまっている。去年から調子が悪かったのだが、今年の夏とうとうお逝きになってしまった。
 頼みの綱だった扇風機も一昨日壊れた。何というか、こういう事は重なると言うが、いくらなんでも酷いだろう。命に関わる。割とマジで。
 平日は忙しいので電気屋にも行けない。買えたのはスーパーで売っていた蚊取り線香だけだった。当然美女はついていなかった。
 窓を開けて外気を取り入れるくらいしか涼気を取る方法が無い。まぁ、閉め切って寝るよりははるかにましか。
 虫よけの為の蚊取り線香に火をつけ、窓は網戸にして布団に横になった。
 汗のにおいが染み付いた布団。自分の匂いだが、少し気になってくる。おまけに俺は多少の腋臭持ちで、その匂いも布団に染み付いてしまっていた。
 まぁ自分自身は慣れたものだが、確かにこれじゃ女なんか寄りつかねぇよなぁ。
 そんな事はどうでもいいんだ。嫌な事は忘れて、寝てしまおう。
 何も考えず目を閉じる。しかし昼間とあまり変わらない暑さと湿気が体にまとわりついて、眠れない。
 そのうち、虫の音までしてくる始末。
 この音は蚊では無く蠅だろうか。だが窓の外からだ。気にしなければどこかに行ってしまうだろう。
 虫の羽音も落ち着き、俺の意識も眠りに落ちそうになったその時、突然ありえない音がして一気に目が覚めた。
 網戸を開けるガラガラと言う音が響いたのだ。……ちょっと待て、ここは二階だぞ? しかも男物の下着だって干している。
 やべぇよ。男の部屋に押し入り強盗かよ?
 俺は目だけ動かして侵入者の姿を確認する。
 背丈は小さい。体格もそんなに良くなさそうだが、暗くてそれくらいしか分からない。
 そいつはきょろきょろと部屋の中を見回しながら、音が立つほど深く深呼吸をしている。
 俺はゆっくり布団から起き上がり、後ろ歩きでそいつから距離を取る。
 そいつは俺の布団の方を向くと、そちらに歩み寄った。……危なかった。
 何か武器になりそうなものは……机の上のコップくらいか。包丁を取りに行ってもいいが、二時間サスペンスよろしくもみ合っているうちにグッサリと言う事態も困る。正当防衛になるだろうが殺人と言うのは今後生きていくうえで精神衛生上重すぎるし、自分に刺さるのも論外だ。
 俺は深呼吸して、覚悟を決める。
 コップを振り上げ身構えながら、電気をつけた。


 「出て行け!」と怒鳴りつけてやるつもりだったのだが、明りに照らされたものがあまりに衝撃的過ぎたため、俺は言葉を失ってしまった。
 最初に目に入ったのは大きな昆虫の腹だった。それが天井に向かって逆さに立って、左右にふりふりと揺れていた。
 その下には、女の細い腰。柔らかそうなお尻と、二―ソックスにブーツを穿いた足がぺたんと布団に女の子座りしていた。
 背中には昆虫の羽が生えていた。蠅のような丸みを帯びたそれには髑髏があしらわれていて、向こうの景色が見えるくらい薄くて綺麗な物だった。
 ここから見えるのはそれくらいだったが、それだけでもう侵入者が人間では無いことは明白だ。
「……魔……物?」
 最近街中でも見かけるようになった、異形の者達。
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