橘颯馬は有能な男だった。
武道の腕は一流。特に剣の冴えは並ぶものなしと言われ、知略や軍略にも長け、詩歌の理解も持ち合わせる。
ただ、彼は武家社会で生きるには足りないものが二つだけあった。
血筋と、そして己が主に対する配慮だった。
颯馬は武家とは名ばかりの、庶民と大して変わらぬ誰からも忘れられた家の生まれだった。一族はかつての栄光を忘れられず、誇りを捨てられず、それゆえ本来の武家以上に剣術や学問を修め続けていた。颯馬の実力は一族の中でも特に際立ったものではあったが、しかし実際、その力は何の役にも立っていなかった。
誇りを捨て農民として生きる道もあった。だが、なまじ能力があり、そして親の期待をも背負った彼は、故郷を離れて仕官の道を目指した。
登用試験は、剣技も筆記も、彼にとっては容易いものであった。特段苦労することもなく、仕官の先は見つかった。
しかし、問題はそこから先であった。
彼には上のものを立てるという、組織人として必要な感覚が欠如していた。誰かに仕えるには有能すぎ、生真面目すぎたのだった。
それが正しいと思える命令であれば、どんな単純な雑事でも、彼は何も言わず黙々とこなしていった。
しかし間違った命令に関しては、誰に対しても何に気を回すでもなく、それを間違いだと指摘した。
虚栄心を満たすためだけの無駄遣い。非効率な都市計画。何の改善にもならない業務の見直し。道理や理屈に反するあれやこれや。そういったものを、彼は見逃せなかった。単純な勘違いでさえも厳しく指摘した。
結果として、彼は仕える主に煙たがられるようになっていった。本人には当たり前のことを言っているつもりでも、主としてみれば自分に才をひけらかし、己の無能をことさらに強調されているも同じだったのだ。
あるいは彼が名の知れた家系の者であれば一目置かれたのかもしれなかった。だが彼はどこの馬の骨とも知れぬ、無名の浪人上がりに過ぎなかった。
そして彼は職を失った。
それでも彼はあきらめず、仕官の先を探し続けた。
能力だけは高いため、はじめは彼を登用する者も少なくはなかった。が、どこへ行っても長くは続かなかった。
颯馬としては自分が正しいことをしているつもりであり、自分に非が無い以上は自分を変える必要もないと考えていたのだ。
仕官先を転々とするうち、とうとう彼を雇おうとする者も無くなっていった。いつの間にか、有能な男という噂が忠義の無い厄介者だという噂に取って代わってしまっていたのだった。
そして彼は表舞台から姿を消した。
今や誰も彼のことを覚えている者はいないだろう。
だが、彼は決して死んだわけでは無かった。満たされぬ想いを燻ぶらせ続けながら、日の当たらない道を歩き続けていた。
草木が鬱蒼と茂る山の中。育ちすぎた木々により日の光さえ届きづらいような山道を、一人の男が歩いていた。
ところどころにほつれの目立つ草臥れた着物を纏い、腰には使い込まれた刀を下ている。無精髭を生やし、伸び放題の髪を飾り気もなく一つに結んでいる。浮浪者同然の薄汚い素浪人。それが、かつて立身出世を夢見た男、橘颯馬の成れの果てだった。
どれだけの間山野を彷徨っていたのか、その臭いは獣同然であった。しかし獣じみているのはそれだけではなかった。
隙無く周囲を警戒しながら、気配を消しつつ力強く進み続ける体捌き。獲物を探し、狙うような飢えた光を宿した瞳。それは人よりも獣に近い程だった。
彼の歩みは目的地を探す者のそれではなかった。目的地に向かう者のものだった。夢折れてなお、彼には求めるものがあった。
額に汗しながら歩くこと半刻ほど。彼の向かう先、木々の間に、朽ち果てた小さなお堂が姿を現した。
「あそこが、噂の古寺か」
颯馬は剣の柄に手をかけながら、足取りをさらに慎重なものにする。
割れて苔むした石畳の道を抜け、腐りかけの木製の段差を登る。様子を探るが、何かが潜んでいる気配は無かった。
戸はすでに歪んで壊れ、開けることは出来なかった。颯馬は身をかがめて、わずかな隙間から中へと身を滑り込ませる。
黴臭い淀んだ空気が満ちる暗いお堂の奥に、何かが鎮座していた。
颯馬は眼を細めながらゆっくりと近づいていく。
「ご神体、いや、即身仏か……。違うな。これは」
一昔前の鎧兜が飾られているのかと思われたが、違った。何かを祭るなり飾っているのならば、それに矢や槍が突き立っていることなどありえないだろう。
「いつぞやの戦の敗残兵か何かか。おおむね、落ち延びた先で力尽きたといったところだろうが」
颯馬は舌打ちし、悪態をつく。
「間抜けな奴だ。戦うべき場所から逃げたうえ、生き延びることさえ出来なかったとは……。しかし、間抜けなのは俺も同じか。胸糞悪い」
足元に転がっ
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