深淵を覗く者



『When you gaze into the abyss, the abyss gazes into you.』

(『深淵を覗くとき、深淵もこちらを覗いている』)


フリードリヒ・ニーチェ




深みを覗いていて、いつしかこちらも覗かれているかのような感覚を覚えたことはないだろうか。

例えばぽっかりと穴を開けている巨大な洞窟、あるいは鬱蒼と樹々が生い茂った深い密林。


もしくは底知れぬ深海。


光のある場所から闇の中を見ることは出来ないが、闇のうちより光を覗くことは出来る、覗いているつもりが、覗かれているかもしれないのだ。



祖父が急死したと聞いて、急ぎ離れ島に帰省せんとフェリーに乗り込んだ青年、如月響は海を見ながらそんなことを思っていた。


祖父は死ぬ二週間ほど前に、響に奇妙な本を託した。

本というよりも数千枚の紙を束ね、綴じられた紙の束と、開かないように三重に鍵のかかった外張りだ。

鍵を開かずに本を開こうとしたが無理だったため、祖父の家で鍵を探そうとも思っていた。


さて、この海の下にはたくさんの世界が広がり、人間には思いも寄らないような生物が存在するのではないか。

そう考えてしまうほどに海は深く、そこを知ることは出来ない。

思えばそんな怪しげな本を持ったまま海を覗いたのがいけなかったかもしれない。


「・・・?」

海の中に何かが見えた気がした。



見えた、というのは正確ではないかもしれない。

何かが船の下をよぎったかのように感じた。


もっとよく見ようと身体を乗り出した瞬間。



「・・・・・見つけた」


若い女性の声が聞こえた。

一緒禍々しい笑みを浮かべた少女が海面の遥かしたに見えたような気がして、響は背筋が凍りついたように感じた。




祖父の通夜の最中、響はこっそりと席を抜け出し、祖父の書斎に入っていた。


幼い頃、帰省するたびに祖父は響を可愛がってくれたものだが、書斎に入ることだけは許してくれなかった。

そんな少年の日に抱いた好奇心が残っていたのか、気がつくと響は書斎にきていた。


初めて入る書斎は意外と狭く、本棚によって圧迫された床にも、たくさんのノートが積まれていた。

本棚にはぎっしりと分厚い本が詰め込まれていたが、その中にはどこの文字なのかさっぱりわからないような記号の書物もあった。


「本だけでなくノートも多いな」

机の上にあったノートをめくってみると、日々の記録を綴った日誌なのか、日付と様々な情報が書かれていた。


「・・・日誌か、爺さんこんなことを」

日付は今から1年前より始まり、日々の生活の中で見たことや思いがけない出来事、何となく感じたことなどが書かれていた。


よく見ると似たような外装のノートは部屋のあちこちにまとめて置いてあり、祖父が生来日誌をよくつけていたことがわかった。

ひょっとしたらこの日誌が見られるのが嫌で祖父は書斎の出入りを禁じていたのかもしれない。


ぺらぺらとめくっていた響だが、ふとその手が止まった。

「あれ?」

日付が一日飛んでいる、これまで一日も欠かさず書かれていたのに、何故。


よくよくノートの綴じ目を見てみると、破った跡があった。

誰かが破りさったのか、なんのために。

次のページにはしっかり記載が残っていた。




八月七日
あの少女の正体はやはり昨日私が予期した通りの存在だった。

まさか生きているうちに海神の使いに出会うことが出来るとは思わなかったが、些か困ったことになった。

あれの隠し場所を使いに知られてしまったかもしれないのだ。

ともかくあれは信頼できる誰かに渡そう、私の命はもう長くはないが、風神さまの意思に反することは出来ない。


八月八日
使いには知らぬ存ぜぬを通し、本はこっそりと送っておいた。

これでとりあえずは安全だろうが、油断は出来ない、一旦ミスカトニックに連絡したほうがいいかもしれない。

かの神が目覚めてしまえばこの世界は終わるかもしれない、そればかりはなんとしても塞がねばならない。





あまりのことに響は知らず、手汗をかいていた。

どうなっている、祖父は一体何をしていたのか、かの神に世界の終わりだと?、どうなっている。

生唾を飲み込み、次のページを開いて響は固まってしまった。





八月十二日
恐るべき事態だ、ミスカトニックから『セラエノ断章』ばかりか『死霊秘宝』まで盗まれてしまうとは。

間違いない、連中は感づいている、そうなってしまえばあれを送った響も危険に晒してしまう。

それだけは塞がねばならない、なんとしても響にはこの島に近づかぬようにさせねば。



「・・・これは、
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