スターリー・モーガンは一風変わった生物学者だ。普段は街の教師として生計を立てる傍らで、休日には近隣の森に入り浸り、そこに生息する野生動物を観察したり、猟師の一団に随行して動植物の知識を学んでいる。
彼が変わり者だと言われる主な原因は、学者としては異様なまでの人当たりの良さであり、どんなに気難しい人間とも友好的な関係を築いてしまう事だ。おかげで偏屈な猟師たちとも良好な付き合いを保っており、彼らも何かと顔の広いモーガンを自分たちの橋渡し役として頼っている。
そんな彼の今回の目的は、このところ急激な生息数の増加が報告されているシカの生態調査だった。シカは人間や他の肉食動物にとっては恰好の食料ではあるものの、数が多くなり過ぎれば、森の生態系に悪影響を与えてしまう。
そう考えた彼は、彼らの生息地を突き止めようと調査に乗り出したという訳だ。
「参ったな……今日ばかりは一人で来るんじゃなかった……」
小さくひとりごちながら、モーガンは近くにあった倒木に腰を下ろした。既に周囲には夕闇が漂い始め、あったはずの帰り道はとうに失われていた。
日が当たっている間は平和的な姿を見せる森林だが、一度夜を迎えればその面影は悉く失われる。眠りについた昼の動物に代わって様々な夜行生物が闊歩し始め、他の生物を食らうために動き出すのは周知の事実だった。
モーガンは不安な顔つきで懐を探った。そこには護身用に持ってきた短剣が納められていたが、獰猛な肉食動物を相手にする可能性を考えれば、こんなものは玩具同然だ。
絶望に覆われそうになる心を必死に鼓舞しながら、彼は立ち上がった。夜を明かすための寝床を探さなければならない。
薪に使えそうな枯れ枝を拾い集めながら森の中を歩いていく。知っている道に出てくれと願いながら歩を進めていたが、残念ながらその願いは叶えられなかった。
そうして歩いている間にも、森の至る所から不気味な気配や鳴き声が聞こえてくる。明るい時間なら可愛いものだと笑い飛ばす事もできたが、夜の森はそうしたものたちが容赦なく命を奪いに来るのだ。
幾ばくかの時間が過ぎ、どうにか森の中でも比較的開けた場所に出る事ができた。身を隠す場所がなければ、何かに襲われたとしても対処する時間がある。
モーガンはさっそく両手に抱えていた枯れ枝を地面に置くと、バックパックの中から着火剤と火打石を取り出して火をつけた。
石から生み出された種火はあっという間に燃料を舐め取り、大きな炎へと成長していく。
焚き火さえあれば大抵の生物は寄ってこない――これでひとまずは安心だ。
「ふう……」
ようやく人心地ついた彼は再びバックパックを探ると、今度は中に忍ばせておいた非常食の包みを取り出した。中身は堅く焼いた黒パンと干し肉が数枚。何とも侘びしい夕食だが、今は贅沢は言っていられない。
早速それを味わおうと包みの紐に指をかけた瞬間、一番近くの茂みから大きな物音が鳴った。
「!!」
懐から素早く短剣を取り出し、松明代わりの枯れ枝と一緒に切っ先を音の発生元へと突き付ける。
何かが木々の間を通り抜けるような音だった。規模からして人間と同じくらいの大きさだ。小型の熊か、あるいはそれに近い別の生き物かもしれない。
緊張と恐怖で喉がひりつく。もし相手が狂暴な肉食獣だったらと思うと、今にも背筋が凍りそうになる。
永遠に思えるような数秒が過ぎ去り、果たして茂みの中から音の主が完全に姿を現した。
「……女?」
出てきたのは緑色の服のような物を身につけた、人型の生き物だった。彼が咄嗟に人間の女性と勘違いしたのは、豊かに実った胸の膨らみと、鋭いながらもどこか愛嬌のある顔立ちのせいだ。
魔物――これがそうなのか。
長らくこの森に通っていたモーガンだったが、本物の魔物を見るのはこれが初めてだった。いくら生物学者とは言え、命に関わるような危険に自分から飛び込んでいく趣味はない。
「――――」
ふと魔物がモーガンの方へと少しずつ近づいてきた。ふらふらとした覚束ない足取り。襲い掛かる前の動作にしては、何か様子がおかしい。
よくよく見てみれば、身体のあちこちからは痛々しい鮮血の筋がいくつも流れており、おまけに右手から生えている鎌のような部位が、左手には存在していない。
「怪我……しているのか」
生物学者でなくとも一目見れば分かることだった。恐らく彼女はここに来る前に何かと戦い、この重傷を負ったのだ。
魔物は苦しげな表情を浮かべると、その場に倒れ込んだ。意識を失ったようで、ぴくりとも動かない。
モーガンは緩いため息と共に短剣を懐に戻した。目の前の魔物は既に脅威ではなくなっていた。
いきなり倒れ込んだそれを一体どうするべきかとしばらく考えた
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