三月三日。立春の温かさと、ひなまつりの賑わいが世間を包む時期。そういった街の喧騒から離れた場所にあるマンションの一室、そこに一人の男がいた。
部屋の間取りは一人暮らしにしては広く、ダイニングとリビングが統合された居間は整頓が行き届いている。壁に掛かっているアナログ時計の針は、十六時を指し示していた。
暖色系のランプが照らす男の顔は、どこか思案に暮れている様子である。
椅子に腰掛ける彼の容姿は平凡。柔和そうな顔立ちに短く切り揃えた黒髪、そして中肉中背の肉体。
しかしその瞳には、ある種の強い決意が宿っていた。
テーブルの上には下ごしらえの済まされた野菜や肉、調味料といった食材が並んでいる。これらは全て、男が厳選した供給業者からのみ仕入れた食品である。
彼は切り分けられた材料を眺め、顎に手をあてる。ここからどのような行程で調理すれば、どのような香辛料と組み合わせれば、食材の持ち味を限界以上に引き出せるだろうかと。
若さの中に垣間見える職人特有の顔立ち。男は一級の腕前を持つ料理人でもあった。
そして今夜。
彼は居並ぶこの食材を存分に使い、愛する女性へ自分の全力を込めた馳走を供するつもりだった。何故なら今日は―。
不意に聞こえるチャイムの音。
男はハッとすると、弾かれたような速度で玄関の方へ歩いて行った。
男が玄関に辿りつくのと、施錠が開かれたのは同時だった。
合鍵を使って入ってきたのは、腰から四本の尻尾を生やし、頭頂部にふさふさした三角形の耳を持つ魔物娘。稲荷だった。淑やかな雰囲気と美しい色香を漂わせる彼女は、その身を巫女服で包んでいた。
白い小袖と緋袴のコントラストは大和撫子の魅力に満ちており、ある種の壮麗さを見る者に抱かせる。
「やぁ、いらっしゃい」
「お邪魔致します」
男は手を差し出し、女は顔を綻ばせてその手を取る。
二人は種族の垣根をものともしない恋人同士であった。
靴を脱ぎ扉の鍵を後ろ手で閉めた稲荷は、薄く紅潮した顔を少しずつ男の顔に近づけていく。
慕情を焦がしつつも、一歩踏み切れない生娘のような所作。
彼女の意図を察した男は、その細い腰に両腕を回しそっと抱擁を交わした。
どちらともなく目をつぶり口先を合わせる。最初は触れるくらいに軽く、やがては舌そのものを絡め合わせる熱烈なものに。
密着した肌からは体温と心音がお互いを行き来し、二人の興奮は高まっていった。
目を閉じて感じられるのは相手のぬくもり。室内にまで這いよって来る夕暮れの寒さも、多幸福感に包まれた二人の前では形無しだった。
時間にしては数分だろうか。キスを堪能した恋人たちは唇をゆっくり離し、目と目を交錯させた。
「お会いしたかったです」
「僕も会いたかった。君にこうして触れたかった」
抱擁を解かぬ二人は、熱に浮かされたような赤ら顔で語らう。
稲荷は神職としてひなまつりの時も忙しく、男も務めている料亭が繁忙期なので彼女に会いに行く時間がなかったのだ。
二人が離れ離れになっていた日数は数日間だが、彼らにしてみればそれすらも非常に長くて、待ち遠しい時間であった。
再会してすぐに熱い接吻を交わすのも、無理からぬことだろう。
「仕事ご苦労様。疲れてないかい?」
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です」
あなたに抱きしめられたお陰で、疲労など消えちゃいましたから。
悪戯っぽい笑顔で稲荷は男の胸に顔をうずめる。女はそのまま自分の頬を男の胸板にゴシゴシとこすり付けた。貴方は自分だけのモノだと、マーキングするかのような振る舞い。
一連の所作に、男の鼓動は段階飛ばしで速くなった。
「……殺し文句だね。君にそんなことを言われると敵わないや」
「ふふっ。好きな殿方にくっつくだけで疲れが霧散するのは、魔物娘の特権ですから」
得意げな様子で語る稲荷は、上目遣いで男を見遣る。
至近距離で稲荷の美貌を独占する彼は、素直な感想を口にした。
「いつ見ても綺麗だ」
「そう言って下さると嬉しいです」
恋人からの賛辞に稲荷の耳はピコピコ動く。小動物的な愛らしさに対し、はにかんだ笑みを男は隠すことができない。
一方の稲荷も、顔は蒸気が出そうなくらいに赤い。落ち着いた性格の彼女だが、少々恥ずかしがり屋な面もあるようだ。
だが綺麗なのは紛れもない事実。むしろ彼女の眉目秀麗さは、綺麗などという単語一つで片付くものではない。
道ですれ違えば、千人中千人が美しいと認める稲荷の美貌。常識の外に理を置く種族だからか、魔物娘には尋常ではない魅力が漂っている。
しかしそんな彼女の視線は自分にだけ向けられている。自分だけが、こうして彼女をかき抱くことができる。
男性という生き物からすれば、美人を独り占めできることは十分に特権と言えよう。
心奥に巡る幸せを感じつつ、男は彼女と過ごしてきた生活を脳内でリフレインさせた。
二年
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