うわごと、ひきつけ−−そして

「……兄貴」
「ます、みか?」

 月の光の下、博之が目を覚ましたのはある種の奇跡だった。
 恐らくは、夢の影響かもしれない。
 さっきまで見ていた夢は、彼にとっては間違いなく悪夢であったからか、眠りが浅かったのだ。

 −−しかし、彼が目を覚ましたときには、すでに何もかもが手遅れだった。

 寝起きの霞む視界に写るのは、自らの妹−−真澄の姿。
 長い黒髪のシルエットが、室内に影を落とす。
 服は着ておらず、胸元を緑色の「何か」で飾っている。
 白い肌が、月明かりに照らされて輝く。どうやら、汗をかいているらしい。
 ぽたぽたと、液体が彼女の体から落ちる。
 彼女は今まさに博之の寝ているベッドの上に立っていた。

(−−甘い)

 鼻腔をくすぐるのは、甘い香り。
 濃い香りの花−−たとえば、薔薇を百本ほど煮詰めたら、このような香りになるのだろうか?
 それは最早匂いとは呼べないほどに濃縮されている。
 むせ返る程の化学物質の暴力が、粘膜を蕩かす。
 触れてすら居ない甘ったるい味すらも感じられるほど。
 視界すらも、香りの粒子によってかすまされている。

「あは、あはは……はは……兄貴ぃ……」

 あまりの異常に焦る博之の上に、真澄がのしかかる。
 甘い息が吹きかけられ、視界がさらに埋め尽くされる。
 暗い中でも分かる、桃色の視界。
 けれど、彼女の瞳はらんらんと輝いて見える。
 そのうつろな目は、彼女本来の黒ではなく−−。月の光を反射して緑色にきらめいていた。

「お、おいっ、おちつ……がっ!?」

 振り払おうと動かした腕が捕まれる。
 それだけで、鉄枷で留められたようになった。
 いくら動かしても、つかまれた部分は一ミリも動かせない。
 じわじわ、じわじわと服越しに彼女の液体がしみこんでくる。

「だめだよ、兄貴ーー逃げようとしたら」
「真澄……何を……」
 
 食虫植物にとらわれた蝶のようにもがく博之を、真澄はとろけきった笑顔で見つめていた。
 だらしなく開いた口から、ぽたりと粘性の高い黄金色の唾液が落ち−−博之の口の中に触れる。

「っ、がっ……ぐあぁ……!?」

(甘い、甘い、あまい、あまい。あまい−−!?)

 開いた舌先に触れたそれは、味覚というものを否定するほど甘く、蜂蜜のようにどろりとしていた。
 口の中で必死に唾液を産生して薄めようとしても、全く効果がないほどに、濃厚。
 黄金色の液体が細胞と細胞の間にしみこんでいくのが否応もなくわかる。
 つかまれている手首や、のしかかられている腹からも同じように液体がしみこみ、同じ甘さを伝えてくる。

 味覚というのは舌だけで感じるものではない。
 舌なめずりをするのは、唇に味覚を感じることのできる神経のあった名残だ。
 辛さであれば、手首ですら味わうことができる。

 そして、今現在。彼は文字通り全身でその蜜を『味わって』いた。
 逃げ場のない味覚の暴力に、彼はただもだえることしかできないで居た。

「美味しい? 一生懸命作ったんだよ? アタシと、百合子の愛をたっぷり−−たぁっぷり詰めたんだから……甘いでしょ?」
「……っ、ゆり……こ、だって?」

 足掻く彼を見下ろしながら、嫣然と微笑む真澄。
 彼女の口から出てきたのは、既に死んだはず少女の名前だった。

 プトマイン−−屍の毒。
 そんな言葉を、博之は思い出していた。
 動物の屍骸には、毒が湧く。
 腐り堕ちた肉から採れた毒は、生者を苦しめるのだ。
 百合子は、死者となって。
 毒となって。
 今、まさに二人を蝕んでいた。

「うん−−あの種の中にね、百合子は居たんだ。そして、アタシの中で育って、芽を吹いたの」

 目を細めながら、胸元を撫でる黒髪の少女。
 そこにあるのは緑色の−−植物の葉だった。
 月明かりにきらめく、長い葉と茎。造花とは思えない生の質感。
 皮膚越しに、根が彼女の全身に満ちているのが肉眼でも分かるほど。それは深く結びついていた。

「そん、な、馬鹿な、はな、し……がっ!?」
「ううん、本当。本当なんだ……兄貴。だって今まさに、百合子はここに居るんだ」
「何……を……」

 博之にのしかかったまま、彼女は彼の右手を胸元へと触れ合わせる。
 汗−−蜜でぬめる手のひら越しに伝わるのは、恐ろしいほどに早い彼女の鼓動と。

「たしかに、ここに居るんだよ」
「……っ」

 もう一つの、鼓動。

どくん(どくん)どく(どくん)んどく(どくん)ん……。

 心臓が二つある。そうとしか表現しようがない、奇妙すぎる早鐘。
 歪なリズムに合わせて、彼女の胸が上下する。

「はは、触られて喜んでる……もっと触って欲しいって。言ってる」
「……ぐぁぅ……っ!?」

 その言葉と同時に彼女から伸びた蔦が、彼の手に絡みつい
[3]次へ
[7]TOP [9]目次
[0]投票 [*]感想[#]メール登録
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33