筋肉痛とひどい咳



 夢を見た。
 ずっと昔の夢。


「お兄ちゃん、大きくなったらアタシ、お兄ちゃんと結婚するの」

 安藤真澄の初恋の人間は、実の兄だった。
 唯一、頼れる人間だったからというのが恐らく理由だったのだろうと博之は考えていた。

 真澄が生まれたころ、母親が不倫をし、それが原因で両親は離婚した。
 その場合においても親権は基本的に母親に渡される。そして、その間男にも。

「……ガキ共が」

 自分を見る冷たい瞳のことはよく覚えている。
 何度も殴られたことも、寒空に放りだされたことも全部。
 基本的に血のつながらない人間に対して、人はどこまでも冷酷になれるのだ。
 それは、人間以外の生物の摂理でもある。

「ねえ、貴方……はやく新しい子作りましょ」
「ははは、このゴミを駆除してからな」

 ……そして、この場合。多くの女性は夫に従うのだ。
 このような家庭において虐待率は非常に高い。
 これもまた、生物の摂理である。

 虐待はきまぐれに行われた。
 間男は賢い男だったため、プールのときなどは外に出ないように、真澄を殴るときは注意を払っていた。
 他の親に対する根回しもした。
 教育委員会には頭を下げれば、すぐに子供は取り返せる。
 子供にとっては家庭とは世界である。その世界から逃げることは、ほとんど不可能なのだ。

「こんな家、出て行ってやる!」

 中学校を卒業し、親から逃げ出せる頃まで、五体満足で居られたことは奇跡だった。
 それから、仕事を見つけられたことも。
 養育費を忘れずに払ってくれていた実の父親が、顔も見たくも無いといいつつも様々な便宜を図ってくれた事も。
 全てが、奇跡だった。
 
「……そうか。でも……俺とお前は結婚は出来ないんだ」

 二人きり、安っぽいアパートの一室。
 小さな妹の頭に手を載せる。

「どうして?」
「兄妹だからな」
「……わかんない」

 泣きそうになりながら首をかしげる彼女の涙を拭いてやる。
 実の親元から離れてから、初めて見る涙だった。
 さらさらとした茶色い髪が、窓越しの光を受けて光っていた。

「お兄ちゃんは、アタシと結婚するのが嫌なの?」
「……」
「アタシのこと、嫌い?」
「そ、そんなことないさ」

 小さな身体を抱きしめる。
 彼女の心臓の鼓動の暖かさを感じる。
 とくん、とくんと生きている音だった。

「……そっか。なら。チャンスはあるよね。いつか、きっと」

 彼女の呟きが、やけに心の中に残った。



※ ※ ※



 ぐちゅり、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゅり。
 肉を掻き分けるような音で、真澄は目を覚ます。

「暑い……」

 胸の辺りが暑い。
 衝動的に服を脱ぐと、べったりと汗がついていた。
 よろよろと時計を確認すると、時刻は深夜。窓を開けると三日月が浮かんでいた。

「のど、渇いた」

 よろよろと、台所に向かって歩く。
 粗末な蛇口から、そのままの水道水を飲む。コップすら使わず、直接蛇口から。
 冷たい感触がのどに心地よい。
 首にかかった水が火照った身体をひやしてくれた。

「……あは、は」

 かすむ視界にうつるのは自らの胸。
 もう一つ心臓が出来たような感覚。
やたらうるさく鳴る心臓。
 そして、肉を掻き分けるような、ぐちゅぐちゅという音。

 ……胸から生えた、緑色の葉。
 白い根が心臓に向けて伸びているのが、感覚的に分かる。
 皮膚を突き破り、筋肉を掻き分け、血管を押し、神経に絡みつく。
 自らの心臓とは違う、早い鼓動が感じられる。

「ここに、居るんだよね」

 彼女は、ただ笑っていた。
 それは狂った人間の顔。
  
「あは、あはは……あはははは……」

 ケタケタと、乾いた笑い声が満ちる。 
 
「そう、ここに居るんだね。百合子」

 そのまま、よろよろとした足で、彼女は歩いていく。
 彼女の特徴であった髪はすでに真っ黒に染まりきり、髪の間からは百合の花の香りがした。

「−−そう同じ人を好きになっても『二人じゃ、分け合えない』」

 ずるり、ずるり。
 足を引きずりながら、向かう先は博之の部屋。

「……『私たちは、詰んでいる』」

 百合子の言葉を、反復しながら。
 ドアノブに手をかける。

「だったら、二人が一緒になれば良かったんだね。あは、あはは……」

 がちゃり。
 ドアが開く。内側から、小さな寝息が聞こえていた。



※ ※ ※


 日記帳。
 

『……今日、私は恋をした。
 一目ぼれだ
 初めての事だった。
 出来損ないとよばれた私でも、心が動く事があるらしい』

『相手の人は、真澄の兄だった。
 よく見ると、目つきとか似てる。
 ……つくづく、縁があると思う。
 唯一の友達のお兄さんなんて』

『真澄は、どうやらあ
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