『こうして、筆をとっていると。
数年前の事を思い出します。
たった一年だけど、忘れられない大切な思い出
ご主人様と出会えて
あなたと出会えて
本当に、良かった−−』
◇
「ん……」
カーテン越しの爽やかな光で、わたし−−進藤いなほは目を覚ましました。
枕もとの時計は五時三十分。いつも通り、目覚ましに頼らない目覚めです。
伸びをひとつして布団から出て深呼吸、涼しい空気が胸いっぱいに広がります。
春と、夏の間。梅雨の時期をこえた頃。
段々暑くなる時期ですが、まだまだ朝は爽やかな気分です。
「よしっ!今日も一日頑張ります!」
布団を畳んで寝巻きを白のワンピースに着替え、洗面所で顔を洗えば、頭の中もすっきりです
。
歯磨きをするのも忘れません。
毎朝の歯磨きには風邪を予防する力があるのです。
歯磨きを終えたら寝癖だらけの長い黒髪を梳かしつつ、鏡で軽く体をチェックします。
頭にはえた稲荷の狐耳と、おしりからはえた尻尾。
服の上でもわかるほど平らなプロポーションは昨日から何一つ変わりません。
毎日ホルスタウロスさんからミルクを貰っているのですが。一朝一夕にはならず、ということでしょうか。
ご主人様のような見事な肉体への道は中々に遠いようです。
「……さて」
ちょっとだけ、落ち込んだ気分を誤魔化すように、台所へ向かいます。
とてとてと音を立てる冷たい板張りの廊下が、足に心地よさを伝えてくれます。
「今日は、何にしましょうか」
冷蔵庫の中身を思い出しながら、流し台にたつための踏み台とエプロンを用意します。
とりあえず昨日買ったばかりの鯖と、炊き立てのご飯。
旬ですし塩焼きは確定です。
ちなみに鯖の旬はもっと後ですが、この鯖は夏が旬だったりします。ゴマサバ、というのだそうです。……実際には一年中美味しい。というのが正しかったりしますが。
栄養を考えたらあとは汁物と、副菜をひとつかふたつ。
夏も近いですし、体を冷やす茄子を味噌汁にしてみるとしましょう。だしは先日のうちに煮干からとったものです。
あとは夏ばて防止にオクラと梅肉の和え物。
箸休めのお漬物は胡瓜です。
一度メニューが決まったら動きは早いです。
鯖には塩をして、水が出てきたらふき取って臭みを取って十字に切込みをいれます。お酒をちょっと使えばふっくら、ぱりっと仕上がります。
茄子は切ってから水につけてアクを取ってから炒めて油を吸わせてから味噌汁へと。
オクラは塩水で洗ってちくちくとした外側を綺麗にして行きます。
ちょっとしたひと手間と愛情が大切だと、どれもお母様が教えてくれた事です。
「よし、いい香りですっ」
グリルから鯖の良い香りがするころには、ご飯の炊ける蒸気がふわりと上がりました。
炊飯器、というのは本当に便利です。
ジパングにいた頃も炊く道具こそあったものの、腕に依存してしまいます。
こうして時間を指定して、美味しいお米が食べられる。
本当にこちらの世界の技術力には感謝です。
「あら、いい香りね」
「ご主人様、おはようございます」
「ええ、おはよう。いなほちゃん。ご飯はこぶの手伝うわ」
「ありがとうございます!」
不意にかけられた声。ふりかえると、美しい女性がたっていました。
美しい金色のさらりとした髪と優しい表情、見事にくびれた腰と女性らしい曲線を描く胸と腰
。
そしてぴょこんと主張した耳、なによりも目を引く黄金の尾は九本です。
彼女こそ、わたしが居候している『金玉の湯』の女将さん。
すなわちわたしが、ご主人様と呼ぶお人です。
……とても凄い力をもっていて、美人だと言うのに結婚相手がみつからないのは本当に不思議……。
「いなほちゃん?」
う、謎の寒気がしてきました。
考えるのはやめにします。
「ご、ご主人様。冷めちゃいますから!早く運びましょう」
誤魔化すように叫びつつ、目覚ましのほうじ茶をたっぷりと二人分のコップに注ぐわたし。
ちなみに、ご飯は交互に担当となっています。
「ご飯くらい出すわよ」と言ってくれたご主人様に、わたしが頼み込んだ形です。
「いただきます」
鯖の塩焼きの前で一礼をひとつ。
向かい合ってご飯を食べます。
鯖の塩焼きをほぐして一口、そのままご飯に合わせると魚の味わいと旨みが口の中に広がります。
ふわふわの油揚げも大好きですが、新鮮なお魚も大好きです。何度も咀嚼して丁寧に味わいます。
そうして口の中がくどくなったところをとろけた茄子の味噌汁で流してさっぱりとさせつつもう一回お魚へ。
時折別の食感と酸味のために茹でて刻んだオクラと梅肉の和え物を織り交ぜつつ、箸を進めて行きます。
うん、ご主人様ほどではないけ
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