ある死者の日常

「−−ふああ」

 紅い月が天に昇り始める頃、私−−ゾンビであるミーシャはベッドの中で目を覚ましました。
 窓の外をみれば暗い道に魔力街灯がともり始め、煉瓦で出来た街をやわらかく照らしています。
 普通の人間や魔物たちにとって夜の始まりであるこの時間は、私達にとっては朝の始まりです。
 いつもは仕事でもう少し早く起きるのですが、今日は休日。月が昇ってから起きるという贅沢ができました。

 軽くあくびをしてから伸びをすると、全身の骨がぱきぱきとなります。
 昨日ストレッチをサボってしまったので、大分体が固まっていたようです。
 勤め先の主であるキョンシーのメイレンさんみたいに動けなくなるほどではないですが、それでもやっぱり動きにくいです。

「あう、う」

 ずるずると足を引きづりながら、厨房に立ちます。
 本当は寝巻きを着替えてからの方がいいのですが、身体が上手く曲がらないので後回しです。

 昨日のうちに仕込んだ蕪と人参、ベーコンのスープを暖めて、ちょっと硬めのパンと、かちかちになったチーズを食卓に置けば、それだけで今日の朝食です。
 スープにちぎったパンを浸し、チーズと一緒に食べると、ほろほろに煮えた野菜と柔らかくなったパン、とろけたチーズの味わいが口の中で解けます。ちょっとだけ混ぜた胡椒(私の住む国の特産品です。贅沢!)がいい香りのアクセントです。

「うん、おい、しい」

 ゆっくりと時間をかけて味わうと、小さな笑みがこぼれます。
 アンデッドモンスター、ゾンビである私には食事やおそらく睡眠も必要ありませんけれど(あんまり美味しくない補精剤は必要ですが)、それでも温かいご飯というのは、とっても嬉しいものです。
 人生には、楽しみが必要だ。そんな言葉が頭に浮かびます。
 もう私は死んでいるのですけれど、つい頷いてしまう言葉だと思いました。
 
「ごち、そう、さ、ま」
 
 食べ終えた食器を片付けて、寝巻きから着替えます。
 厚手でシンプルな白のシャツに、深緑色のスカート。
 少し野暮ったいけれど、私が死ぬ前に持っていた唯一の財産です。
 顔を埋めると、ほんの少しだけ甘い香りがします。
 これは、魔術の残滓だそうです。

 死した私が傷つかないようにかけられた護りの魔法。
 「君は、随分と想われていたようだね」
 そう、フィリアさんは語っていました。

 −−何度か洗濯をしたけれど残るこの香りは、誰のものなのか。死ぬ前の記憶の殆どを喪った私は覚えていません。
 思い出せるのは、実直そうな蒼い瞳だけ。
 それでも少しだけ、嬉しくなるのです。
 私は誰かに想われていた。
 たったそれだけでも、私の冷たい身体は動くのです。
 いつか、会いに行こう。
 そんな気持ちが、凍った心臓を跳ねさせました。
 
「さて、と」

 名残惜しげに服から体を放し、何度か体を伸ばします。
 食事を取ったおかげか、大分動くようになった体をチェックしながら再び厨房に向かいます。
 今日は休日ですが、ちょっとした約束があるのです。
 冷蔵魔術をかけた箱(私を蘇らせてくれたリッチのフィリアさんが作ってくれたものです)の中から、事前に作っておいた生地を取り出します。
 丁寧に振るいにかけた小麦粉と、たっぷりのバターに砂糖、そして卵黄が混ざった黄金色のそれは、クッキーの生地。前日につくって寝かせて、味を馴染ませておくのと、型抜きは冷たいうちにやるのがちょっとしたポイントです。
 型抜きで星型や丸型に切り出し、クッキングシートを引いたオーブンで焼きはじめると、バターの幸せな香りが部屋の中に満ちます。

「みんな、よろ、こんで、くれる、といいな」

 オーブンの前で鼻歌を歌いながらそんなことを考えます。
 今日は、友人達とのお茶会の日。
 私はクッキーを持って行く約束をしていました。

「お前のクッキーは美味しいから楽しみだぜ」

 と、友人のグールであるガラテアさんが涎をたらしていたのを思い出して、思わずくすりと笑ってしまいます。
 心からの美味しいと言う言葉は、作り手にとっての栄養になるのです。
 食べ手のことを考えること、それが私にとって一番の料理のコツなのです。

「−−そろそ、ろ、かな」

 オーブンをあけ、ミトンを嵌めた手でクッキーを取り出します。
 天板からただよう甘い香り、ほんのすこし混ぜたヴァニラシュガーの優しい匂いがバターと混じりあって、つまみぐいの衝動が湧いてしまいます。

「おい、し、い」

 一枚だけ、端の方で焦げた星型のクッキーをつまみぐいすると、甘い味わいとさっくりとした風味が広がります。
 どうやらいつもより、大分美味しく
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