「−−」
夕闇に染まる図書室の中、夕美は一冊の本に向かい合う。
彼女が唯一雅人に近づくことの出来た一戦。
それは、ある棋譜の模倣であった。
「もう、いちど」
文字列の上に、目を走らせる。
本の名は『盤上の戦争』。
彼女が追いすがるために選んだ答えであった。
「ナイトをすす。めて、ビショップで、ころ、して」
指を這わせ、棋譜を追いすがる。
彼女の棋力は、あの日分からなかった一手一手の意味が見えてくるほどに、上達していた。
彼らが行っていた戦争の詳細を知るほどに。
一戦目は、互角の一局であった。
マクシミリアンがソフィリアの打ちまわしの隙をつき、辛くもとった一勝。
途中、マクシミリアンに疑問手が見られたのが違和感であった。
ソフィリアがその手を咎めなかったからこそ勝てたものの、そうでなければ敗北者は王子であっただろう。
二戦目は。疑問手がさらに増えた。
結果は王子の勝利。
マクシミリアンによる露骨な釣りだし。かかるソフィリア。
引き分けのオファーを蹴り続けて、敗北する王女の姿がそこにはあった。
三戦目、四戦目。
積み上がる局が増えるにつれて。彼女は惨敗を喫していく。
三戦目ではオープニングブックを大胆に変え、四戦目では定石にない手を序盤からたたきつけた。
しかし、王女の手は、届かない。
疑問手は増え続け、彼女を踏み躙る。
そして、五戦目。
夕美は一手一手をなぞりながら、呻いた。
雅人はこの本を『チェスじゃない』と表現した。
まさしくそれは、チェスではなかった。
虐殺と表現するのが、正しいのだろう。
一方的に王子が、王女を責める。
王女の手は、全てが見透かされ、打つ前に潰えさせられる。
全く何もさせないままの、完勝。
6戦目、7戦目、8戦目、9戦目、二桁、全てそれ以降の棋譜。
すべてが、同じ結果。
ただひたすらに、彼女は挑み、殺されていく。
工夫しなかったわけではない、手に変化を加えなかったわけでもない。
オープニング、ミドルゲームの展開は全てが違うものであり−−
全てが王子の掌の上であった。
メタゲーム。
すなわち対策をとること。
戦術に対して行われるそれを彼は。
ソフィリアという人格に対して、行っていた。
もはや、この虐殺にはソフィリアすら必要ないのだ。
彼女の人格は、全て王子の中に再現されてしまっているのだから。
思ったとおりにに動く相手を誘導し、殺す。
ただそれだけの作業。
チェスを語り合うことなど不可能だと嘲笑うかのようだった。
夕美は知りえない言葉だが、当時一つの言葉が生み出されたという。
『マクシミリアンの対手』。
意味は「無駄」「避けなければならないこと」「まな板の上の鯉」である。
彼との対局でやつれ果てたソフィリアはその言葉に乾いた笑いをもらしたと言われている。
「……」
ぱたり、と最終局を見る前に夕美は本を閉じた。
これ以上学べることはないという、表情であった。
マクシミリアンの戦術は全てソフィリアに当てられたもの。
雅人にぶつけられるものではないのだ。
しかし、彼女にはある奇妙な確信が芽生えていた。
王子の実力は、王女には及ばない。
まっとうに打てば、三回に二回、彼女に敗北する。
雅人と、夕美ほど大きな差ではないが、それでも希望となった。
彼のことを、しらなければならない。
思えば、雅人について彼女が知って居ることは殆どないのだ。
チェスを通して、ただ全力でぶつかってくる彼の姿しか、しらなかった。
どんな風に生きて、どんなことを考えて。
今、何をしているのか。
全てを、知りたかった。
図書室の椅子を片付け、彼女は部屋の外に出た。
外はもう、完全に暗くなっていた。
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